かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

つむぐ/つぐむ


長年ホームスパンをされてる方にお会いする機会を得て、ひさびさに羊毛を紡いだ。

機械の紡ぎ機ははじめてで、最初は機械に対して恐れがあったのか、ぎこちなく慣れてきてスムーズになった。




言葉を紡ぐという



そして、言葉をつぐむともいう言い方もする。



言葉をつぐむ期間があって、また紡いでいくとき、前述の私の手紡ぎ体験のようにちゃんとどこかからだは感覚として憶えている。憶えていないと思っても、私の手が、身体が私が紡いだ言葉も憶えている。




人間は物心つくまえ、つまり言葉を覚える前に人生の脚本(ユング派の心理学用語であり、若干意味は違うらしいが)をかいてしまうことがあるそうだ。

記憶にないわけだし、ことばがまだわからない時代のことだ。生きていくための処世術のようなこともあるのだろう。


そう思うと
全く記憶にないのに、この懐かしい感覚、この違和感、etc
がおこってくる瞬間があることに気づく。

人はまず言葉をつむいで自分をあらわすのではなく、言葉を発しないときからつまり、「言葉をつぐむ」ときから
紡ぐ準備をしている。

例えば羊毛を糸にするには途方もなく長い準備がいる。毛を洗って、ほぐして、場合によってはそれを染める。

それを面倒だとおもう側面もあるかもしれないが紡ぐことを想像しながらそれ自体の作業もわくわくしながら準備する。



言葉をつぐむ期間は紡ぐことと同じくらい、いやそれ以上にたいせつだと感じる。

人と会うのはたのしい。交流することは面白い。
けれど一人の時間もたいせつにしたい。
言葉をつむぐこと、そしてつぐむ時間は愛おしい、わくわくすると思いたい。

いまは孤独社会といわれる。それは、中途半端にずるずると一人になれないままどんどん自分を消耗していくからだ。ネット然り。

メデイアから離れてひとりになる時間、うちにこもる時間をもとう。
手仕事はまさしくそういう要素がある。
ひとりの作業は孤独から解放する。