Being であること
ただのわたし
ただあるということ
先日、といいながらもう半年以上も前。
私の中ではまだまだ新鮮な記憶です。
内田輝さんのグラビィコード
なかなかいくことのできないお山の上のギャラリー、arabon 。観客はなんと定員5名。そしてたった3名の贅沢な贅沢な演奏会でした。
もと小学校横の、古い小屋を素敵に改装されたちいさなすてきな場所。
窓を開け放して自然の音と融合しながら演奏がはじまりました。
かぼそいちいさな音。
呼吸がきこえてきそう。
遠くの大きな木を眺めていると鳥がとまっている
ざわっと風がなびく
いつのまにか目をつむって(つむる、って瞑るってかくんだ)まさに瞑想。
途中で草刈機の音がなる。
けれどなぜかそれも気にならない。
ああ、いいんだ。私このままで大丈夫。いいんだ。このただある世界の中に浮遊しているひとり。
音楽をきいていてはじめて感じる感覚でした。
きくところによると、バッハの時代、音は聴かせるというより、人の方が耳を傾けることによって、霊性を開いていくという目的があったみたい。教会の中の音楽として、五感を開いていく流れがあったのか。。少なくともその効果に私はぴったりあてはまりました。
昨日、友人が有名なバイオリニストの演奏を聴きにいくといっていて、彼の弾くパガニーニやチャイコフスキーの超絶技巧の動画を久々にききましたが、それは月でいうなら満月。音楽もそのときそのときのよさがあります。
今日が月のはじまり、新月だからじゃないけどそんな日はゆったりとしたグラビィコードの演奏がききたい。
そして生の音を私も聴きにいきたい。
風の谷のナウシカで世界が滅びまた復活するときのために遺すべき技術は戦争のための技術でもなく生活を便利にする技術でもなく、音楽をはじめとする芸術だった