かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

蝉の声

f:id:sallygarden:20200730230816j:image

あることに思いを巡らせていると

夢の中までその考えが巡っていて

おきるかおきないかの合間に

「新鮮な」蝉の声が朝早くから聴こえた

ほんとうにそれはびっくりするほど

新しい鳴き声で

こどもがおかあさんの胎内からでてきたときの泣き声のような

神聖で新しい声だった

 

土の中で何年も何年も

暗闇の中で何年も何年も

 

 

 

感動というのは誰の判断も要らない

感受性というのは女性性だという人もいるけれど

それがどうきこえようがどうみえようが

自分の思考がとどまることを得ないほど何かがゆさぶられる

いい方にも悪い方にも

 

久しぶりに死ぬことについて考えている

有名な若い俳優が死んだことに

随分と自分でもびっくりするくらいに揺さぶられている。

 

ブレイディみかこさんの書いた金子文子について

奇しくも蝉の声のエピソードがかかれていた。

(神さまはどうしてこうやってメッセージをどうにかして伝えようとするのかわからない。)

 

金子文子は死のうとしていたそのとき

油蝉の鳴く声に覚醒した。瞬間に文子の楽天性に死をくいとめた

地獄であろう自分の生きる道に

世には愛するべきものが無数にある

美しいものが無数にある

ここばかりとは限らない

世界は広い

 

、、、、

私のこの前きいた蝉の声は

金子文子の伝える楽天性だったのかもしれない

 

地獄かもしれない世界

土の中からでも

世の中は広い

世界はあいするべきものが無数にある

世界は美しいものが無数にある

 

 

 

生きたい気持ちと裏腹の

死への誘いをめざまし時計のような

蝉の声が、は!とさせる

 

長引く梅雨に身体もおかしくなりそうだけれど

また命の楽感性に力をあたえてくれるだろうか。

 

 

逆光 雲の向こう

 

there is always light behind the clouds

 

 

f:id:sallygarden:20200716223817j:image


手紙

逆光

 


光が私にあたるとき

 


私にみえる世界は

逆光にうつる景色

.

 


手紙をかきかけた

紙には

インクが滲んで文字がみえない

 

 

 

光が影のようにうつるとき

インクがしみわたるとき

 


その余白に

 


微かな世界に

 


あなたへ伝えたいことがある 

 


どうぞ

そこに気がついて

螺旋

f:id:sallygarden:20200619054825j:image

 

 

 

 

 

 

 

日に日に

おひさまの光を受けて

天へ向かおうとするエネルギー

 

 

 

 


へその緒のように細く

柔軟にけれど丈夫に繋がる

天への糸よ

.

螺旋のように

のびては縮み

.

心を

身体を

.

のびては縮ませる

.

 


.

縄をなうように

連なりあって柔軟だか強い

道標が

私と天の間にはある

.

いつのまにか上り行き、

いつのまにかまた降りていく

.

光の粒は数々の星の糸となり

縄となり

それがまた集まって

おおいなる

天の川のような

布になる

 

 

 

 

 

 

創世記

f:id:sallygarden:20200617060833j:image

 

 

いま

まだ混沌として

天と地もわかれておらず名もない、

なにもない

状態の、

はじめのはじまりの状態に

 

長いと思ってたけれど

神様の目からみたら

永遠からみたら

それはびっくりするほど

一瞬で

けれどその一瞬も時がとまったみたいに

長くて

私には永遠にぬけだせない

沼のようなところで

泥浴のように

うまっている

なにものでもなく

名もなく

発することも

受けとることも

沼のなかでしかできない

 

 

 

 

永遠と一瞬の狭間で

 

そこに在ることで

びっくりするほどの

言葉にならない

「在る」

でわたしのなにもない状態を

満たそうとしている 

すっからかんの卵が満ちてやがて

自分で殻をやぶる

 

こどもが螺旋状にさかさになって産まれてくるみたいに

毎朝毎朝

そんな

死のような

けれど祝福の夜の沼から

天にむくがごとく

うまれてきては

またかえっていく

くりかえし

 

あるぶぶんにおいては

あるいは

外側のわたしには

名前がついているけれど

 

ほんとうの名前は

まだ隠されている

もしくは

まだなづけられていない

 

沼から天にのぼっては

信じられないほどの宇宙の彼方にいろいろおいていっては

また夜の帳とばりの

うちに

纏うものもまた脱ぎ捨ててはまとって

かるくなっては

また重くなって

同じ繰り返しのように

永遠のように1日をすごす

 

宇宙の光も必要で

宇宙の闇も必要で

 

そのはざまを

わたしはいまのところ

なもないなにもない状態で

行き来してる

いや

その中庸のど真ん中にいて

伸び縮みしてるだけなのかもしれない

 

 

 

みえかくれする

f:id:sallygarden:20200611210848j:image

 

 


点在する蛍の光

夜空にもそれがうつったかのように

ちりばめられる

星座

 


蛍の一点一点も星座のようにつなぎたくなる

 

 

 

翌日

曇り空の下では蛍もみえなくなってしまった

 


みえなくなるとき

また

みえてくるとき

 


あちらこちらで

月がみえかくれするように

そんな時があってもいいのではないか

 


年に数回現れるような

蛍のともしび

激しくもすぐ消え去る

花火も

何年も何年も

地中深く眠って

大きくうたいだす

 


そうやって人生のバランスを

たもとうとしている

 

 

 

 

7は8から1をひく

 

f:id:sallygarden:20200605100602j:image

 

毎週木曜にkey wordをきめて

友は絵を、私は言葉を紡ぐというのを

ちょうどコロナ禍からはじめて

二ヶ月

交代にふっとおもいついたことや降りてきた

key wordをテーマにして

のち木曜にお互いだします。

絵に言葉をつけるでも

言葉に絵をつけるでもないのだけれど

強弱やニュアンスも多少違えど

なんとなく符号するこの感じ。

必要ななにかがでてくるような。

 

個人的には言葉だけでももっと紡ぎたいと

思いつつも怠け癖か、

今は必要ないのか?あまりできてないので

こういうルーチンというかリズムがあるのはありがたく

その時その時の自分の心情や

世界をみている感覚と自分をみている感覚があつたりする。

 

特にこの非常事態な時はピークがすぎてみると

忘却装置があるのかその時その時の感覚を忘れてしまう。

なのでところどころ

こうやってピンをたてておくと

あとからみても

なんとなく筋道があって

思い出す作用になる。

 

詩は説明してはいけない

と思うし、

説明すると言葉の濃密さが

どうしても薄まってしまう。

でも

どうしても説明したいときがある。 

 

きっと絵もそうで、

タイトルは感じるその人に

感じてもらうのが

一番その作品にとって完成度が高いし

説明は言い訳のような気もする。

 

 

といいつつ、今回はうだうだと書いてみる。

 

今回のkey wordの一つは7。

 

 

 

 

なぜ7にしたかその時の理由は忘れてしまったけれど

 

7というのは

ある意味完全数

なにをもって完全というのかはおいておいて、

1週間だったり音階だったり

7にしておくと多分世界はおさまるのだろう。

 

ラッキーセブンともいうし

 

そんな伏線を

偶然的に

自らだしながら

 

7について考えていると、

別のところで8枚の花びらにみたてて

自分の存在を現す、みたいなことを

教えてもらった。

 

私の中で7というのは

完全、であるなら

その完全な在り方に、「私」の要素が足されるとき

8、すなわち∞、インフィニティ

循環のような

豊かさのような

豊満、豊かに満ちる

 

 1、というたった1人の私も、完全な存在

自然を感じるところで

共に豊かになれる

自立する

みたいな。。

 

今週の彼女の絵は

まさに生命の木のような

ダイナミックでパワフルな絵。

f:id:sallygarden:20200605100626j:image

 

生命の木は、

それこそ

その人、その人をあらわすのだから

そこに花があるのだから

ちょっとやそっとでは

その木は倒れることはないし

わたし、と7的存在は共にたっている。

自然はわたしがあってこそだし、

わたしも自然があってこそ

 

そんなことをすぐに忘れるから

日々の暦や

花をいける心や

お茶をのんだりすることが

 

思い出す

装置となっている。

 

だから

お茶はペットボトルでも

売ってるけれど

自ずからいれてのみたいし、

花も造花や人工的なものは

精巧にできているけれど

枯れるとはいえ生きたものを

いけたい。

それが本能であり、

私が私であることの

力なのだとあらためてしる。

 

萩乃さん

 

f:id:sallygarden:20200526195850j:image

 

萩乃というのは

父親が

私につけようとした名前だ

 

画数を調べてつけるなんてことはなく

多分雰囲気がいいと思ったんだろうけど

母方の祖母が反対して却下

(多分、は◯、とかいわれる、とかそんな理由)

 

しかし

物心ついた頃には

祖母の俳句の名前は

萩乃で、

俳句仲間からは萩乃さん

と呼ばれていた

きっと内心気に入っていたか、もしくは

うしろめたさもあったのかもしれない。

父親の文章というものを読んだことはないけれどそういうセンスというものはある人だったのでは?と推測する。

父親も随分前に死んでしまった。

 

祖母が早くに亡くなって

同じ句会に母は入会していた

こともあったけれど

その名前は継がなかったし

俳名というものを母は持たなかった。

 

 

母たち姉妹が祖母の遺句集を作ったタイトルは

かやつりぐさで、

なんとなくブログを作るときに

その祖母を辿るような気がして

同じタイトルにした。

かやつりぐさは

細々とやっているバンドの名前

キペルスパピルス  と符号もして。

 

なにかを記す紙、

それよりも本質的な原始的なところに立ってる気がする。

 

なにかにしようとも、なにかになろうともしない媒介。

 

それでも積み重なりはありがたく

私自身のささえになるものが

うみだしたものからというものに

感謝しかないけれど、

やっぱり

名前、というのは何かあるのかもしれないな、と感じている。

 

父親からも祖母からもまもられているようなそんな香りがする。

 

最近は随分といろんなものが濾されたり、昇華されたりしてる。

濃厚になったのか、シンプルになったのか。