there is always light behind the clouds
手紙
逆光
滴
光が私にあたるとき
私にみえる世界は
逆光にうつる景色
.
手紙をかきかけた
紙には
インクが滲んで文字がみえない
光が影のようにうつるとき
インクがしみわたるとき
その余白に
微かな世界に
あなたへ伝えたいことがある
どうぞ
そこに気がついて
と
there is always light behind the clouds
手紙
逆光
滴
光が私にあたるとき
私にみえる世界は
逆光にうつる景色
.
手紙をかきかけた
紙には
インクが滲んで文字がみえない
光が影のようにうつるとき
インクがしみわたるとき
その余白に
微かな世界に
あなたへ伝えたいことがある
どうぞ
そこに気がついて
と
いま
まだ混沌として
天と地もわかれておらず名もない、
なにもない
状態の、
はじめのはじまりの状態に
長いと思ってたけれど
神様の目からみたら
永遠からみたら
それはびっくりするほど
一瞬で
けれどその一瞬も時がとまったみたいに
長くて
私には永遠にぬけだせない
沼のようなところで
泥浴のように
うまっている
なにものでもなく
名もなく
発することも
受けとることも
沼のなかでしかできない
永遠と一瞬の狭間で
そこに在ることで
びっくりするほどの
言葉にならない
「在る」
でわたしのなにもない状態を
満たそうとしている
すっからかんの卵が満ちてやがて
自分で殻をやぶる
こどもが螺旋状にさかさになって産まれてくるみたいに
毎朝毎朝
そんな
死のような
けれど祝福の夜の沼から
天にむくがごとく
うまれてきては
またかえっていく
くりかえし
あるぶぶんにおいては
あるいは
外側のわたしには
名前がついているけれど
ほんとうの名前は
まだ隠されている
もしくは
まだなづけられていない
沼から天にのぼっては
信じられないほどの宇宙の彼方にいろいろおいていっては
また夜の帳とばりの
うちに
纏うものもまた脱ぎ捨ててはまとって
かるくなっては
また重くなって
同じ繰り返しのように
永遠のように1日をすごす
宇宙の光も必要で
宇宙の闇も必要で
そのはざまを
わたしはいまのところ
なもないなにもない状態で
行き来してる
いや
その中庸のど真ん中にいて
伸び縮みしてるだけなのかもしれない
毎週木曜にkey wordをきめて
友は絵を、私は言葉を紡ぐというのを
ちょうどコロナ禍からはじめて
二ヶ月
交代にふっとおもいついたことや降りてきた
key wordをテーマにして
のち木曜にお互いだします。
絵に言葉をつけるでも
言葉に絵をつけるでもないのだけれど
強弱やニュアンスも多少違えど
なんとなく符号するこの感じ。
必要ななにかがでてくるような。
個人的には言葉だけでももっと紡ぎたいと
思いつつも怠け癖か、
今は必要ないのか?あまりできてないので
こういうルーチンというかリズムがあるのはありがたく
その時その時の自分の心情や
世界をみている感覚と自分をみている感覚があつたりする。
特にこの非常事態な時はピークがすぎてみると
忘却装置があるのかその時その時の感覚を忘れてしまう。
なのでところどころ
こうやってピンをたてておくと
あとからみても
なんとなく筋道があって
思い出す作用になる。
詩は説明してはいけない
と思うし、
説明すると言葉の濃密さが
どうしても薄まってしまう。
でも
どうしても説明したいときがある。
きっと絵もそうで、
タイトルは感じるその人に
感じてもらうのが
一番その作品にとって完成度が高いし
説明は言い訳のような気もする。
といいつつ、今回はうだうだと書いてみる。
今回のkey wordの一つは7。
なぜ7にしたかその時の理由は忘れてしまったけれど
7というのは
ある意味完全数。
なにをもって完全というのかはおいておいて、
1週間だったり音階だったり
7にしておくと多分世界はおさまるのだろう。
ラッキーセブンともいうし
そんな伏線を
偶然的に
自らだしながら
7について考えていると、
別のところで8枚の花びらにみたてて
自分の存在を現す、みたいなことを
教えてもらった。
私の中で7というのは
完全、であるなら
その完全な在り方に、「私」の要素が足されるとき
8、すなわち∞、インフィニティ
循環のような
豊かさのような
豊満、豊かに満ちる
1、というたった1人の私も、完全な存在
自然を感じるところで
共に豊かになれる
自立する
みたいな。。
今週の彼女の絵は
まさに生命の木のような
ダイナミックでパワフルな絵。
生命の木は、
それこそ
その人、その人をあらわすのだから
そこに花があるのだから
ちょっとやそっとでは
その木は倒れることはないし
わたし、と7的存在は共にたっている。
自然はわたしがあってこそだし、
わたしも自然があってこそ
そんなことをすぐに忘れるから
日々の暦や
花をいける心や
お茶をのんだりすることが
思い出す
装置となっている。
だから
お茶はペットボトルでも
売ってるけれど
自ずからいれてのみたいし、
花も造花や人工的なものは
精巧にできているけれど
枯れるとはいえ生きたものを
いけたい。
それが本能であり、
私が私であることの
力なのだとあらためてしる。
萩乃というのは
父親が
私につけようとした名前だ
画数を調べてつけるなんてことはなく
多分雰囲気がいいと思ったんだろうけど
母方の祖母が反対して却下
(多分、は◯、とかいわれる、とかそんな理由)
しかし
物心ついた頃には
祖母の俳句の名前は
萩乃で、
俳句仲間からは萩乃さん
と呼ばれていた
きっと内心気に入っていたか、もしくは
うしろめたさもあったのかもしれない。
父親の文章というものを読んだことはないけれどそういうセンスというものはある人だったのでは?と推測する。
父親も随分前に死んでしまった。
祖母が早くに亡くなって
同じ句会に母は入会していた
こともあったけれど
その名前は継がなかったし
俳名というものを母は持たなかった。
母たち姉妹が祖母の遺句集を作ったタイトルは
かやつりぐさで、
なんとなくブログを作るときに
その祖母を辿るような気がして
同じタイトルにした。
かやつりぐさは
細々とやっているバンドの名前
キペルスパピルス と符号もして。
なにかを記す紙、
それよりも本質的な原始的なところに立ってる気がする。
なにかにしようとも、なにかになろうともしない媒介。
それでも積み重なりはありがたく
私自身のささえになるものが
うみだしたものからというものに
感謝しかないけれど、
やっぱり
名前、というのは何かあるのかもしれないな、と感じている。
父親からも祖母からもまもられているようなそんな香りがする。
最近は随分といろんなものが濾されたり、昇華されたりしてる。
濃厚になったのか、シンプルになったのか。
どろどろの、もう潜っていたいような
はずかしさがとてつもなくおとずれてくることがあって
また姿を隠そうとしたい衝動に駆られるとき
歩いていると田んぼの水張りの水面が
風で鳥の羽のようにさざめいたのです。
なんてことのない
ただそれだけのことなのに
私はその時泥の中にいる気持ちで
けれど光と風が
でておいでよ、と
そっと撫でられたような
そんな気がしたのです。
毎週のように相手がいる中で言葉を編みだすのは自己逃避を避けることにはなるのだけれど
何分自分の弱さとも向き合わなければいけません。
うみだすときには多少の苦しみがあるけれど
その先には喜びがあるということを
その一瞬の風が瞬間的におしえてくれた
そんな朝でした。
暗闇にいるとき光などいづこへ
となるけれど
その間に水があること、それもとてもお互いを親しくなるための媒介であること。
(ああ何も浮かばないもうお風呂に入ろうというのもきっとそう。)
バプテストのヨハネにキリストが洗礼をうける
習いもきっとそういうことなのだと
そしてそこには
やはり
歌があるということも。
、、、、、、、、、、、、、、、、
強くなる陽の光に
薄暗い木陰を求めるように
穴の中のくらやみに
まぎれたくなるときも
闇夜に遠く灯りがちかりと
みえたときの安堵も
わたしには
水面をゆらす風
水晶玉のようにみせる
朝の光
地中も
地上も
天の光も
水がつないでいると
思った
あめつち
田歌よ
うたえやうたえ
あなぐらにすむものよ。
絵askoizumi
詩chisakokita