とどけられた一枚
この秋に友だちである、あつこちゃん、みるまにと、宮古島の織作家石嶺かおりさんの個展のときにできた詩を
歌にしたいとおもいながらできないままでいました。
油断するとわたしは「岩倉」に埋没してしまう。
背中を最近押してもらうことがたくさんある。
でてきなさい、でてきなさい。と言葉も
先日の劇団トルの舞台でもわたしの中では美しい衣、布に目がいったけれど
みるまにの目に止まった衣装も青いツーピースに
羽がはえていて
きるとほんとうにとんでいけそうな
深い青に映えた白と優しい色たちが重なっていた。
(みるまにの衣装。ピースフラッグもつけてみた)
あたらしい歌をうたうんだよ!というのは
わたしの心の奥底にあったらしく
そういうのをみるまにがちょっと前によみとって伝えにきてくれた。
そしてあの衣装をきてうたってみようよ?とまでいってくれて。
なのに怠け心と情けない心よ、
きっと彼女は忘れてるだろうとスルーしようとおもったら
ちゃんとマーケットtreeの日に届けてくれて
今年最後のライブでうたうんだよ!と。
はてさて。
Liveは1週間後。
まさしく
うみのくるしみ。
詩はできている。コード進行もできている。曲にする言葉のカタチが降りてこない。
今回は劇団トルのキャラメルもみたことと、中村哲さんの死もあり
押し出されるものと、そんなこととが絡まりあって産道から出てこない。
のほほんと「岩倉」のなかでぬくぬくとすごしていると遠いアフガニスタンのことは想像できない。まわりの心を通わせている人たちが中村さんの死に対して思いを寄せている。
みるまにのときに司会をしてくださっていた蒔田さんがピースフラッグの旗をもって
お葬式にいかれたそうだ。
アフガニスタンまでの分骨は
その青い布に包まれてとどけられたそうだ。
まさしくわたしにとどけられた衣もブルー
そんなことにはまったく気づかずにうんうんうなりながら
ようやくなんとかできて
(とりあえず)
向かった先はふるほんマルシェ
詩のタイトルはとどけられた布だったけれど
違うよね、とずっと感じていた。
ふるほんマルシェでは
栞本をもっていくとマルシェの金券がもらえるというシステムがあるそうで、
自分の好きなページに栞を挟んでそのことについて書いたりして手にとった人とその本を繋ぐ助けをする。
Live当日、本来の栞の意味を思い出し、これなのかも、と思った。
栞は漢字をみるとわかるけれど、
まさに木に布がひっかかっている、干されている様子。
山に登ると遭難防止の目印にある小さな布が栞の語源ときいたことがある。
ちいさなマーケットのtreeに青い衣装を持ってきたことも符号すぎて静かにびっくりした。
、、、、、
新しい曲は聴きそびれたけど、、といいながらもう一つのわたしの曲「ちいさなともしび」という曲をきいて友が絵を描いたのを見せてくれた。(一番上の絵)
そこには大きな宇宙の本があって無数のちいさなともしびがある、ようにみえた。
ともしびは栞にもおきかえられる。
そのひと、そのひとにとっての
「ここ!」という場所に栞が無数に挟まれていてそれが夜空のように星がまたたいている。
昨日、ある学校のクリスマス劇を観に行くと、
何十人もの中学生がろうそくを灯して賛美歌を歌ってくれた。おおきな光ではなく
ちいさな光が無数にあることの美しさとちからづよさ。
キリストが人々のために天に住まいをつくりにうまれてきたその場所は王座どころか、人知れず場所すらないような粗末なところで
けれど星は隙間だらけの中で無数にかがやいていたのだろう
(厩は本来は、岩倉だったという説もある)
中村さんのこともおもいながら今日は教会でひさびさに賛美歌を歌いたいと思ってる。