かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

roomfinalに寄せて

 f:id:sallygarden:20171127091839j:image

 

虫が喰ったようなちいさなちいさな覗き穴をのぞいてみる。

薄暗いベールに隠れたような先にある風景を眼をこらしてみてみる。

おぼろげに儚げにでも“それ”がみえたときの喜び

'そこ'にあるものは今はっきりとは現されてはいないけれど

“みようとする心の動きと身体の動き”の

そして、そのもののプロセス

本当は、すべて知っている自分自身のことも神様はあえて

あまりわからないようにしているのかも、と思うときがあります。

私たちはおぼろげな世界にいるのかもしれません。

それはろうそくを灯す世界になにか懐かしいような

安心感を憶えるように。その薄暗い中のほうが忘れていた思い出や

願いを思い出すような感覚。

 

 

 

 

銀河鉄道の夜というお話をきっかけにビオラを奏でる優子さん

そしてstillroomという場所を繋いでいっている千鈴さん

そしてお話の場面が変わるように一章ごとに決まっていったguestのみなさん

それぞれにまさにstoryがありました。

さて9章。銀河鉄道の夜の最終章にして物語の中で非常に長い章でもあります。

銀河を、そしてまさに夜、あの世とこの世の、現実なのか非現実なのかわからない世界の中で

抽象的でありつつも大切な言葉のエッセンスをところどころで登場人物たちが語ります

 

“なにがしあわせかわからないのです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進むなかでのできごとなら峠の上がり下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。”

“ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろなかなしみもみんなおぼしめしです”

 

だれも悲しみや苦しみは望みません。けれどそんなことがおこったとき嘆くことは必要で傍らにそれをきいてくれる友人であったり、カフェで出会った人であったり、もしくは一人孤独に落ち込むときもこの物語の一節だったり、その中できいたメロディだったりがあり、嘆き悲しみのはてには必ず希望や祝祭があるような気がしてなりません。

 

roomは、ひとまず幕を閉めますが、そういう部屋のようなものがみなさんお一人お一人のうちにありますよう、祈ります。

 

 

 

12/10

 

room /stillroom

 

yuko kunomura 

 chisako Kita 

orito Kita

forsputonik

 

 f:id:sallygarden:20171127093939j:image

 

森の奥深く
一点の光
瞳に映るその輝き

迷わないように
漆黒の夜にカンテラがつるされている

中にはbar-tender
やさしいとまりぎへ
ようこそ


冬ならば小屋の暖炉
夏ならば焚き火

薪をくべながら
瞳をとじてそのやさしい
うたごえに耳を傾ける

リズムよく 時折はぜる枝のように

奏でるギター

 

 

ただ休めばよかったんだ
何もなやまなくても

ただ鳥が枝に止まるように
私もそうやって静止する

 

木々はささえてくれる
強い冬の風からも
夏の日差しからも

深い森の中で
一歩ずつ旅をしていく
Life goes on /Life is coming back
人生もそうやってすすんでいく

 

言葉と、言葉なきことへの糸

f:id:sallygarden:20171120085701j:image

 

 

糸、というか橋

 

自分の中に言葉があるのか

と問うとつまってしまうときがある

というか詰まってばかりだ。

 

野口整体の体癖で私は骨盤型、と言われたことがあるけれど、まさに頭、ではモノを考えられなくて、下の方に降りてくるとようやく、言葉になる。

 

逆にそこまで到達しないと到底何を言っているかわからないし、私の感想もない。昔から本はすきなつもりだったがどうも頭で読んでいるような気がしない。

頭を使う、という意味においては本当にわたしは馬鹿だ、と思う。

 

 

 

私の文はそういうわけで言葉にはなっているのだけれど言葉なき言葉なんじゃないか、もともとみえないことを顕すものなんだから言葉って実体のないようなものではあるけれど、

頭脳型、もしくはなんだろう、骨盤よりは少なくとも上の方で発言をいえるような人たちの言葉の行き交いに無言になってしまう。

会話を交わさない者はそこにいてもよいのかとそういう場にいくといつも躊躇してしまう。

集会のような言葉を交わすところでであれば集まれば意見を求められる。そうすると真っ白になるか、もしくは思いもしないことを言ってしまったり。

 

それから言葉にならない自分の中にある身体感覚を言葉にしてくれている先人がいるかもしれない。と期待して先人の言葉に長けた人の書物を苦労して読む。

 

この話はまだまだかきたい事があるのだけれど、いつまでたっても次がでてこないのでこの辺で一旦止める。

続きはまた。

 

 

 

 

 

 

 

good morning

f:id:sallygarden:20171024205754j:image

茶の花

 

 

 

Here on the pulse of this new day
You may have the grace to look up and out and into your sister 's eyes and into your brother 'a face, your country and say simply very simply with hope
Good morning

Maya Angelou

 

 

 

 

英語圏の人にとって挨拶は祈りである

らしいよ、とさっき息子が英語の勉強していてつぶやいた

Good morning 

あなたによき朝が来ますように

来る日も来る日も

Good morning

よき日であるように

 

 

この月曜の朝、個人的には本当に本当に何もできなかったので選挙の結果をみて

一方でローカルに良きニュースがあり、一方でこの国の行く末を思い落ち込んだ。

 

最近情報を制限していたのでfbでの情報も入らずたまたま近所で友人があつまるよと、連絡もらって選挙翌日、くらしとせいじカフェという集まりへ。こういうところにも遠ざかってた。

 

遠くにいると距離を感じるがこうやって膝つきあわした中で、それもこの選挙で大活躍した友人たちの、えらそぶらないよもやま話をきいて笑ったりしながらも、さて、私には何ができるんやろうと半分頭をかかえながらバランスをとっていく。

 

今回、周りでは政治はじぶんごと、という言葉をよく耳にした。

 

オールオキナワ、ソウル市長選、たたかって勝ち取っていった成功体験例の話。

 

そこへの道のり、手法を教えてもらうこと、また今回はたして思った通りな結果になっていないにしても、この短期間にいままで手を繋がなかった人たちが手を繋いだ事実、立憲民主党をたちあげたこと、また表に出てこないひとたちのサポートetc

しろ、くろ、じゃなくて成功体験を数えてみることも大切、、と年上のおじさまがおっしゃる。

 

それと反省もふまえて選挙がはじまる!からはじめるのではなく普段からのお茶のみ話にじぶんのこととして政治の話、社会の話をもっと自分の身丈に下ろして話すこと、、理解すること、、。

 

むつかしくしてしまわない仕組み、情報過多ゆえに、そこに踏み込んでいけなくなってしまわないようにすること、いうだけにならないようにしないと、、

 

と思いつつ本来の意味での、グッドモーニングといいながら、あきらめないで祈りのように希望をもっていく。

 

 

say simply very simply with hope
Good morning!

 

 

奇しくも月曜の翌日は学校の立ち当番で、大勢の子どもたちが挨拶してきた。

数年前は挨拶してこなかったのになあ、、と地域の子たちを誇らしく思いつつ、私もみんなが笑ってられるように挨拶を交わした。

 

 

#中の人ありがとう大作戦

#くらしとせいじ

#mayaangelou

 

八つの話 .8

'一雨'

 f:id:sallygarden:20171009114530j:image

 

雨の跡
潤された森の中で
私は一枝折りそれを道標にした
その枝からひとしずくひとしずく
苔むしったところへ雨が垂れていく
その場所で、またそこから流れて
大きな流れになることをその雫は知ることもなくただただ大地の力にゆだねていく

私の足音がしばし止まって水の「足音」を聴く
そしてしばらくしてまたその水音と重なって私はふたたび歩くだろう


土になろうとする葉や草をふみならす

 

その重なりあった音が
旅の栞のようにいく先を示す

私のあるくその一足一足が
枝から落ちるひとしずくとひとつになる

 

一は一であり、全だ
全はまた上昇してみえないほどになるがまた一となっていく

八つの話.7

'親しくなる'

 

 

f:id:sallygarden:20171007124306j:image

山葡萄が届いて夏の八ヶ岳の記憶が蘇る。あのストーブはもう毎日炊かれてることだろう。

、、、、、、

 

近づいてみると遠くなるような気がして

憧れのままで距離を置いておくものがある

 

山のようにそんなものはあって

けれど興味のある分野はたくさんある。

草木の名前や星座なんかもそうで、近しい人が詳しいと自分がいたたまれなくなって逃げ出したくなる。

 

なので一向に詳しくならないのだけれど好きだし薄い層が重なるようにはなってるような気もする。

 

そんな衝動に駆られなくてもいい人物や環境に身を置いていたらいいのに、と思いつつ単にそうだ私はそういったものとどうにかして親しくなりたいだけなんだ、と我にかえる。

 

人間には必ず共通項があるのだそうだ。

それと同じくして惹かれていく場所の手がかりとして植物に名前があるのならそれをおぼえることで親しくなっていくようなきがする。

おぼえようとする憂鬱(人でいうなら第一印象とか)を超えた先にある喜び。

 

先日、これは蘇芳ですよ、という植物に喜喜として染めようとしたけれど調べてみるとそれは花蘇芳でいう別の植物で、いわゆる鮮やかな色はでない、とものの本には書いてあった。けれどやはり染めてみようと久しぶりに植物を、染めてみる。

そうすると私と、その花蘇芳は親しくなる。

花が咲いていなくて、葉をみてああ花蘇芳、とわかる。

少しずつそんな風に親しくなるためにはやっぱり手を動かして親しくなれるか確認していく作業が必要なんだろう。

 

山を歩く、でもいい。

ひとつおちたどんぐりをひろって家に帰って何の木から落ちたのか考えるのもいい。

 

親しくとなる、漢字がおやという意味であり、立って木から見ると書くことにもなにかそれ相当の意味があるのだろう。

 

私は仕事として教えられるほどにはならないだろう。ましてや教えることは苦手だ。けれど実際教育という現場において、大人ができることは環境整えるばかりで、教えることでなにか得ていくかと思ったら違うのだと思う。

 

登れるように励ますよりも登れる木を探してまず登る楽しみを味わうこと。

 

同じ環境の中で共にいることでこどもがそこから学びたい気持ちを立ちのぼらせること。

 

親のやることはただ立って木から子を見る。

私も、やんわりとそんな感じで目に見えない親のような存在を感じつつ自分の親しくなりたいところへ行こうとするのだ。

 

#花蘇芳#山葡萄#蘇る#

 

 

 

 

 

灯すこと供えること

 

 

 f:id:sallygarden:20171006102206j:image

10月1日

父親の命日だな、とはじめて意識しつつも7年たってもやはりそのまえはやたらと心身の調子が悪くて、今ようやくぬけているところ

あまり眠れず2時すぎにおきてはろうそくを灯す。秋は特にいただきものや、森や庭でなるものがあって

とっては飾ってみる。

命日がすぎて、気づくとろうそくを数日ともしていないことに気がついた。

 

これは「させられて」いたのだな。

させられていた期間をすぎてあらためてまた灯してみようかと思ってみる。うんしよう。

 

 

昨日は大切な友人夫婦の赤ちゃんをはじめて抱いた。

イネイト、という自然に、、という意味合いの自然治癒力を促す療法があって、その帰り赤ちゃんに出会ったのだけれど、その療法をうけているときと全く同じ身体感覚を受ける。

心も喜びでいっぱいになっていく。

そして祝いたい気持ちで溢れてくる。

何もできないただだかれるままにいる赤ちゃん。それだけで完全な状態。自分も誰もかれもが通ってきた状態。

懐かしさのような、喜びと心地よさを感じる。

 

 

ふと思ったのは誕生日を迎えて、ろうそくを灯すこと、またお祝いをする人に対してプレゼントをしたりすることと、また死んでしまった人に対してろうそくを灯すこと、お供えをすることは相反するようで人が生きる上で必要なことなのではと考えるようになった。

 

お祝いしたいきもち、偲びたいきもち

どちらにも灯をともしたい欲求となにか供えたい気持ちが生じる。

 

先日キペルスパピルスのライブで、友人の誕生日ということがわかって誕生日の歌を歌った。そのあとにルイアームストロングのwhat's wonderful worldという曲を訳した(アーサービーナード訳)すばらしいみんな、という曲を最後に歌った。

 

びっくりしたのだけれど歌いながら英語も日本語も歌詞が腑に落ちるようにしみこんでくる

1人の人を祝うことで、自分の中にある祝祭というか生きる喜びが湧いてくる。

 

中にはもう会えない人もいる。

生きている人たち、残された人たちの中にある偲ぶ心と、生きる喜びが綾のように折り重なっていくのが本当に本当にしみじみと感動したのだった。

 f:id:sallygarden:20171006235942j:image

満月の雨とはうってかわった湖北どっぽ村の暮の扉にて

 

#キペルスパピルス#暮の扉#ルシエル#イネイト#木通