かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

八つの話.7

'親しくなる'

 

 

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山葡萄が届いて夏の八ヶ岳の記憶が蘇る。あのストーブはもう毎日炊かれてることだろう。

、、、、、、

 

近づいてみると遠くなるような気がして

憧れのままで距離を置いておくものがある

 

山のようにそんなものはあって

けれど興味のある分野はたくさんある。

草木の名前や星座なんかもそうで、近しい人が詳しいと自分がいたたまれなくなって逃げ出したくなる。

 

なので一向に詳しくならないのだけれど好きだし薄い層が重なるようにはなってるような気もする。

 

そんな衝動に駆られなくてもいい人物や環境に身を置いていたらいいのに、と思いつつ単にそうだ私はそういったものとどうにかして親しくなりたいだけなんだ、と我にかえる。

 

人間には必ず共通項があるのだそうだ。

それと同じくして惹かれていく場所の手がかりとして植物に名前があるのならそれをおぼえることで親しくなっていくようなきがする。

おぼえようとする憂鬱(人でいうなら第一印象とか)を超えた先にある喜び。

 

先日、これは蘇芳ですよ、という植物に喜喜として染めようとしたけれど調べてみるとそれは花蘇芳でいう別の植物で、いわゆる鮮やかな色はでない、とものの本には書いてあった。けれどやはり染めてみようと久しぶりに植物を、染めてみる。

そうすると私と、その花蘇芳は親しくなる。

花が咲いていなくて、葉をみてああ花蘇芳、とわかる。

少しずつそんな風に親しくなるためにはやっぱり手を動かして親しくなれるか確認していく作業が必要なんだろう。

 

山を歩く、でもいい。

ひとつおちたどんぐりをひろって家に帰って何の木から落ちたのか考えるのもいい。

 

親しくとなる、漢字がおやという意味であり、立って木から見ると書くことにもなにかそれ相当の意味があるのだろう。

 

私は仕事として教えられるほどにはならないだろう。ましてや教えることは苦手だ。けれど実際教育という現場において、大人ができることは環境整えるばかりで、教えることでなにか得ていくかと思ったら違うのだと思う。

 

登れるように励ますよりも登れる木を探してまず登る楽しみを味わうこと。

 

同じ環境の中で共にいることでこどもがそこから学びたい気持ちを立ちのぼらせること。

 

親のやることはただ立って木から子を見る。

私も、やんわりとそんな感じで目に見えない親のような存在を感じつつ自分の親しくなりたいところへ行こうとするのだ。

 

#花蘇芳#山葡萄#蘇る#

 

 

 

 

 

灯すこと供えること

 

 

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10月1日

父親の命日だな、とはじめて意識しつつも7年たってもやはりそのまえはやたらと心身の調子が悪くて、今ようやくぬけているところ

あまり眠れず2時すぎにおきてはろうそくを灯す。秋は特にいただきものや、森や庭でなるものがあって

とっては飾ってみる。

命日がすぎて、気づくとろうそくを数日ともしていないことに気がついた。

 

これは「させられて」いたのだな。

させられていた期間をすぎてあらためてまた灯してみようかと思ってみる。うんしよう。

 

 

昨日は大切な友人夫婦の赤ちゃんをはじめて抱いた。

イネイト、という自然に、、という意味合いの自然治癒力を促す療法があって、その帰り赤ちゃんに出会ったのだけれど、その療法をうけているときと全く同じ身体感覚を受ける。

心も喜びでいっぱいになっていく。

そして祝いたい気持ちで溢れてくる。

何もできないただだかれるままにいる赤ちゃん。それだけで完全な状態。自分も誰もかれもが通ってきた状態。

懐かしさのような、喜びと心地よさを感じる。

 

 

ふと思ったのは誕生日を迎えて、ろうそくを灯すこと、またお祝いをする人に対してプレゼントをしたりすることと、また死んでしまった人に対してろうそくを灯すこと、お供えをすることは相反するようで人が生きる上で必要なことなのではと考えるようになった。

 

お祝いしたいきもち、偲びたいきもち

どちらにも灯をともしたい欲求となにか供えたい気持ちが生じる。

 

先日キペルスパピルスのライブで、友人の誕生日ということがわかって誕生日の歌を歌った。そのあとにルイアームストロングのwhat's wonderful worldという曲を訳した(アーサービーナード訳)すばらしいみんな、という曲を最後に歌った。

 

びっくりしたのだけれど歌いながら英語も日本語も歌詞が腑に落ちるようにしみこんでくる

1人の人を祝うことで、自分の中にある祝祭というか生きる喜びが湧いてくる。

 

中にはもう会えない人もいる。

生きている人たち、残された人たちの中にある偲ぶ心と、生きる喜びが綾のように折り重なっていくのが本当に本当にしみじみと感動したのだった。

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満月の雨とはうってかわった湖北どっぽ村の暮の扉にて

 

#キペルスパピルス#暮の扉#ルシエル#イネイト#木通

 

 

 

 

 

八つの話.6

'人生の装備'

 

 

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石川直樹の本で装備、がタイトルに入る本がある。

 

また違うけれど昔読んだ池澤夏樹の本でもスティルライフというのがあった。

 

ミニマリストというのも流行っているらしい

 

最小限の、けれど生活できる範囲で自分らしさをつくりだすこと。

 

 

山行はたまにしか行かないから何が自分にとって必要か、なくてもいいけどあったらよかった、が感覚的にいつも忘れてしまって帰って来たら今回はメモをした。

 

変わっていく体力や嗜好も変化していく

不食をされている方の動画をみたとき、

その方は登山する時の食料の荷物の多さが嫌で山では極力食べない、から日常でもそうなっていったそうだ。

(その方の運動量と食事の量は比例していない。。)

私の荷物も、確かに行きと帰りでは重さがだいぶ違う。

 

 

 

山だからこそ簡便なものをあえてそこは普段通りに行こう、と考えたり、お茶もティーバッグでなくリーフでもっていったりと譲れないところは譲らずない。

 けれどかといって服は着替えない。身体もお湯であらえたらまだいい方で、下山するまで入らないことも覚悟。

 

昔から体力はなくて山行の終わりや合間がすきだ。

ではなぜ故いくの?となるとそこまでしないとある一定の空気やふるいにかけられない。

 

 

映画をみに映画館へいく

映画はいまや家で見ることもできるけれど電車に乗ってわざわざいく

 

音楽や絵画もそうだ。平面的なものをではなく三次元、四次元、Live、生きたものを味わいにいく。

とてもそれは贅沢なことだけれどそうしたくなるのはそこに自分が体験したいスイッチがオンになるかもしれないからだ。

 

 

今朝はひどい感情のままその感情を抱きしめてペンを片手にノートを開いた。

 

 

 

それがたとえば瞑想だったり走ることだったりするのかもしれないけれどなにかしら自分をよきものへ導く装置をつくりだすこと。

 

 

実は昨日映画をみたあと、このブログに似たようなことを書いていて今朝おきたら文章が消えていた。

ある意味ショックなのだけれど、

映画の追体験のようだと認識すると少し、どころかかえって喜びを感じた。

 

(映画、パターソン。ジムジャームッシュ監督。主人公が平凡な日常の中で綴っていた詩のノートを飼っていた犬にボロボロにされ見るも無残な状態になってしまう。

ショックで外出すると詩人と称する永瀬正敏が白紙のノートを最後に渡す、、、)

 

詩をかくことは自分にとって喜びであるし、あとあと自分でみること、もしくは他の人にみてもらうことの喜びもあるのかもしれないが、一番の目的は白紙のノートに

自分から発するものを記していくことでまさにその時生ずるなにかなのである。

 

ノートとペンそれも装置であり装備だ、と思う。

 

 

 

 

 

 

 

t h e e s s e n c e

ハービーハンコックの比較的新しいアルバム(と思っていたが15年以上前にでたもの)を久しぶりにきいた、チャカカーンが歌っている(the essence )

 

いきなり

 

あなたは自分の数字をしっているの?

 

 

と歌い出す。

 

自分の中につきつめれば何があるのか何に長けているのか何に向かっているのか。

 

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一年前にであった彼女は集まりの中でも奥の方で一心不乱に繕いものをしていた。その時は趣味の範囲だったようだけれど(すでに見た感じは趣味の範囲を超えていたけれど)一年経つとカタチにしていく彼女は絵画と刺繍展を開催した。

 

ありがたいことに期間中のちくちくカフェによばれて私たちのバンド、キペルスパピルスで演奏してきたのだけれど

そんな中でもずっと

 

チャカカーンの、私の中にあるnumberは なんなのかという問いがただよっていた。

 

いやnumberというかsignというか。

わたしの中にあるものを数値化したもの。算数のレベルですでに得意ではないのになぜか数学に惹かれるのは、記号として私がどんな風に存在するのか、表面的にみえるもの、DNAレベルで粒子のごとく細かくしたわたしは?とない頭で考える。

心で計算はできないものかと考える。

 

 

ただの紙片である「キペルスパピルス」に偶然もしくは必然に、文字のようなのが刻印がされていくように、問いをたてるときに向かっていく答えへの旅のようなもの。

そうだ、それだ。

 

奇しくも彼女、みるまにの個展の名前はたびたびなのだ。

 

みているまに、たびたび

みるまにみるまに、たびたび

 

 

魔法のことばのように唱えてみる

 

やっぱり輪廻転生は信じないが、それでも物理的に先祖からつづく命の連なりには数字のような羅列、エッセンスがあるはずだ。

 

親を否定肯定しようと、自分を否定肯定しようと、そこに連なる情報はしっかり存在しているわけで、こどものいる私はまた次へとエッセンスがつづいていく。

本質的なものは連綿とつづいていくのだ。

、、、、、、、

 

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青の問いに、緑で答える

 

昨日の個展のあったパン屋さんに置いてあった本を何気に開くとあった。

チベットの格言のようだった。

 

 

青に対する答えが青だとおもったら違うのかもしれない。

 

青に向かって旅する道中で出会うエッセンス。

そこが緑への答えであったとしてもその道中の旅の体験で私は満足を得るのだろう。

 

 

気に入った刺繍のブローチを手に入れて帰った。そこには数字の5のイメージの刺繍が。

私は問いをもちつつ旅をしながら5にむかっていくのか、

でもそれが着いたら3であろうと4であろうと構わない。

大切なのはその道中、旅のあいま、みるまに着いてしまうそのプロセスなんだろう

 

 

 

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#みるまに#キペルスパピルス#undertree#sowhats#イルチェロ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

月満ちる/一本の木

 

 

 

 

 

 

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2017/9/8

満月マルシェのつくりかた出版記念パーティーにて

 

 

 

 

聖なる予言という20年以上前に流行った本を友人が読み返しているときいて私もまた読みたいなと思い出していたがその中でコインシデンス、偶然の一致という話があったと記憶している。
いろいろなことがすすんだりするときは点と点が繋がっていく。
その符号の一致をすすんでいくサインとして捉えたりする。


本を読んでいてもそういうことはある。本から本へ呼ばれるというか。

原作が映画になった
(虹という曲が主題歌で、私もたまに歌っている)

西の魔女が死んだ

この方の世界観がすきでエッセイも数年ぶりに再読しようと思っていたら別の友人が同じ本を読んでいるという。

 

「渡りの足跡」という本の中で友人は北海道の旅の前にこれを読もうとしていた。
そうなんだ、と私も北海道の渡り鳥の印象が強いままなんとなく本を途中からあけた。

ところが北海道ではなくそのページは最近訪れた諏訪湖の話だった。
それもどちらかというと鳥ではなく、戦争時代の父親が体験した日系アメリカ人の収容所の話。

私は学生の頃マンザナールというヨセミテの日系アメリカ人収容所跡地に行っている。

 

想像力に多少欠けているので自分が経験している場所だと格段と入りこみ度が変わる。
いやこのタイミング、なにか意味があるのだろうかと勘ぐる。符号が二つならんで、さてそこから私はどう導かれていくのか、とか妄想半分考えてしまう。


でも転がるように目の前にあらわれるメッセージは好きだし従いたくなる。

 

逆に目に見えてとても大きな共通点があるはずなのにそういう符号の一致が感覚的に何ひとつない場合もある。

趣味も似てるのにな、って思うのだけれど、気があうあわないという言い方に変えれば納得するというか。


そもそも、かやつり草と、日記の名前をつけたのは祖母の本のタイトルを受け継いでだけれど、

日記はじめていない頃、
そんなことはつゆもしらない音楽仲間が提案したのはキペルスパピルス
カヤツリグサの学名である。

 

パピルス、エジプトの古代の紙でもあった。

 

キペルスパピルス、どうも外国っぽい名前は気恥ずかしく感じたけれどカヤツリグサの学名というのをきいてそこに巨大な符号を感じた。
そもそも音楽もたいせつにしているけれど音楽だけをやるバンドではない。

みんな本が好きで、本を紹介しつつ演奏することもある。

「かやつり草」も祖母の俳句集として本になっているのもなんだか偶然ではない。

 

 

 

 

 

 

 

八つの話.5

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'rebuilding center'

 

 

 

 

 「私はあなたを建て直す」*1

「棄てられた礎に建てる」*2

 

 

 

ある意味私も、そして夫にとってもテーマになる言葉だと思っている。

 

八ヶ岳の帰り、きっと夫がすきであろう諏訪にあるリビルディングセンターなる場所をみつけ足をのばした。

 

古材バンクというのは滋賀にもあるからかえったらそこにも行こうといいつつ、(ちゃんとそこのショップカードもあった)

 

わくわくの止まらない夫。廃材で何かをいつもつくりたいと思っている

 

(学生時代、いまは可能なのか疑問だけれど棄てられたものをなおしては売ったりして、つきあいはじめのころも壊れて棄てられてた自転車をなおしてツーリングに行ったりしてた。)

 

言うなれば骨董屋の新しい形のような店なのだけれど、アメリカポートランドではじまった形態だそうだ

 

ある人が壊れたりしてそこに価値を見出せない/かたやそれを拾いあげる人が欲しい人に繋いでいく

 

店内も建築家?がオーナーなのか素晴らしくデザインされた内装だった。

もちろん廃材を使っている。

 

 

 

思った通りにいかない/たちゆかない/

止まってしまっている/壊れてしまった/もうおしまいだ/

/あきらめかけてしまうとき/絶望してしまうとき

 

ある日まさしく天からの声

がきこえたときがあった。

 

「あなたを私は建て直す」

 

リビルディングセンターでは骨董屋でいうところのうぶだし、買取の行為を

レスキューというそう。

 

まさに救済

 

自分ではどうしようもなくたちゆかないとき、ただその言葉だけ、差しのばされる手だけでどんなにか救われるときがある。

 

 

 創造する側からしてみれば救済することは創造することと同じくらい意義のあることなのかもしれない

 

 

 *1旧約聖書エレミヤ31:4

「わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される」

*2旧約聖書詩篇118:22

「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎のいしになった 」

 

 

 

 

 

 

 

 

八つの話. 4

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'目を瞑る'

 

 

不思議とこちらから近づくと偶然が重なるというか、むこうから、そうだよ、いまはそのときなのかとおしえてくれることがある。

 

、、、、、、

 

 

ついこないだ目が本当にみえなくなってしまった。

 

それも瞑想の会に参加して翌日。

 

 

 

いまも文字をみないように文章を書いている。

みえなくなったときはパニックになったし、炎症がおきていたときは死ぬほど痛かったけれど落ち着いて痛みもなくなったとき不思議とこのままでもなにか不自由はあるだろうかと、思った。

 

 

 

本や文章を読むのは好きだし綺麗な風景をみるのも好きだ。けれども意外とそういう欲求よりも文字を鉛筆でちゃんと書けなくなること以外は、そんなになくても大丈夫という、みるということへの欲求が意外と私の中に沈んでいるという発見があった。

 

不自由さは周りの方が大変になるなとおもうのだけれど、意外と目をつむってご飯をつくることもできるし、見た目を気にする部分も客観的にみることもなし。

ましてや人の雰囲気や顔色をみすぎる癖から解放される。

 

いまもSNSは、控えているけれどそういうことからも自由だ。

 

本当に伝えたいことはゆっくりで、肉筆肉声がよい。

 

なぜか目のトラブルの前日に友人が光という映画の話をしていた。

みえない人のための映画の翻訳の仕事の話。

 

そんなことを思い出しながらふと、オーロラの旅行雑誌を開けると谷川俊太郎の詩の一片

 

目で聴く

 

という表現

 

こないだから谷川俊太郎の詩について書いていたがなんというか谷川氏の詩は先の先をゆく想像性を含んでいる。

 

耳でみることもできる、なにか感覚がひとつ損なわれたぶん別の感覚が蘇る/もしくはうまれるような。

 

盲人は賢者にみえる、という言葉があるよ、映画の話をしていた友人は言っていた。

 

ここは目をつむっておこう、という表現もあるが、少しイライラしたとき、心がざわついたとき瞑想のように目を瞑る癖ができそうだ。