かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

my favorite things

 

my favorite things について
かこうと思ったら過去にblogにかいていた
もう一度書く前に再掲

写真はちいさな人に昨日もらった
かたつむりのぬけがら

何を選ぶか、その結果がどんなにかよいものになるか

今日どこにいくか、明日どこへいくか


もちろん選びきれないときもあるし、棚からゆめのようによきことがおとずれることもある。
逆もある。災難とおもうことも
そんなとき
自分の「すき」という感覚をストックしておきたい

どうしても過去の経験やまたそんなことがおこるかも、とか、雲ゆき怪しい気持ちがおとずれるような予感すらも。
直感を信じるというけれど

その直感も、自分を満たしつづける作業の蓄積


映画、ショーシャンクの空に

で主人公が放送室をしばしジャックしてすきなレコードをかける
罰として窓のない独房に何日も閉じ込められる
でも彼の中には大好きな音楽があった
彼の頭の中で流れる音楽は誰も締め出すことはできない

世の中が変わっていくとき、または変えていきたいと思うとき
大規模な「世の中」でなくて
結局そこと「私」が対峙していて
ひっくり返ることすらある。

だからこそ「わたし」をたいせつにしたい
すき、で満たされた世界にしたい。

政治的な活動やニュースを見聞きするたびにモヤモヤするのはきっと私がそこを
通過させてないからだ。

戦争でドイツからスイスへ山越えする
sounds of music の中で
このfavorite things がうたわれてるのは偶然じゃない気がする。

私の、すきが損なわれるものの代表が戦争だ。

70

f:id:sallygarden:20170719055049j:image

 

70を迎えたばかりの細野さんと!

 

(私、細野さんの頭の上の方にかすかにうつってます。。)

 

だれかの熱烈なファンというのになったことがない。中学生のときもアイドルにはまったこともなく何人かのミュージシャンが好きでよくきいてた人はあるけれと、ライブハウスも数えるほどしかいったことがないのです。

(そんな私がライブ活動してるとか不思議。。)

 

なのでこの歳になってもそんな感じで友と話しているうちになぜどのようにもりあがったのかわからないけれどあれよあれよとチケットもとってもらっていってきました。

 

 

 

昔のナンバーは数少なく、あとはラテンやジャズのそれもあまり知られてない曲。高田蓮の秀逸で色っぽいギター

をベースにゆったりと、70で五十肩とかいいながらギターで弾き語る。

 

もうこの歳になるとすきな曲しかしないのですよ。

めざせ加山雄三とかいいつつロカビリーやったりチークナンバーもやったり。

(加山さん80歳でロックフェスでると、新聞にでてた)

 

でも何やっても激しくてもゆったりでもあのまったりとした脱力したような声でなんでも細野さんになる。

 

 

長年演奏されているとだんだんやりつくしたもののなかから原点回帰というか音楽の原点みたいなものに戻っていく。。

 

 

、、、、

先日いつもメンテナンスをお願いしている方の先生の講座に招待してもらった。

 

お年はなんと細野さんと同じ。

 

ちなみに生きていたら父親も同じ。

高度成長を、駆け抜けた東京で多分相当にバブルのような経験もされたのだという。

講座をするのに何百万というお金が動いたりした時代もあったそう。。

 

ももうこのとしになるとすきなことしかしない。

ん?どっかできいたことあるな。。

 

そしてどんどんシンプルになっていく。

 

長年お弟子さん、言うなればファンのような方を乗り越えて新しい施術の方法が昨日うまれたんですよ、と教えてもらう若者世代。

 

そして、ワクワクすることが私へのお礼ですよ、と先生。

 

どんどんシンプルになっていく

70で引退、あとは人のためにいきる。

でもすきなことしかしない

結局利他的なのは利己的。

 

ふーむとおもいながら

私自身はすきなことしかしない、といっているレベルがものすごくレイヤーの中での発言なのだけれど、私もいまそれができるはずで、やらねばいけないところ、つまりワクワクするところでしか生きていないと全然直感も働かないし

 

そこにチャンネルをあわせることの重要性。

 

整体も結局そういうことで一点そこが整うと自己治癒力がはたらきはじめる

 

音楽だろうがなんだろうが結局一緒。

やっていこう、そして人のためにも生きようと思う。

 

峠のピークの谷底

f:id:sallygarden:20170714063052j:image

 

忌々しい坂だ

 

60年代の青春漫画、坂道のアポロンで通学路の坂道の前で主人公のかおるが呟く

 

駆け上ったり、降ったり。

いまいましさは

ときにそれ自体がよろこびになったり、降りだからといってほっとするものではない

 

のぼりの坂は体力的にはあれだけど私は嫌いじゃない。

 

普段の生活は辛いとのぼることは辛くもなるけれど、なにかがまってる坂道は喜びの汗。

のぼりがすぐまっている谷底は多少うんざりのちいさな恐怖。

 

 

坂道のアポロンででてくるジャズナンバー

モーニンという曲は朝morningじゃなくて嘆きmourninだった。

 

でもそんなタイトルの曲にわくわくしてしまうこともある。

メロディになにかが反応して

 

嘆きすら、毎日のキツイ坂道ですらよろこびにかわる瞬間

 

、、、、、、、

 

先日オープニングで演奏させてもらった、こまっちゃクレズマーのライブ。

 f:id:sallygarden:20170714094858j:image

 

ロシアや東欧の薫りのする音楽。酸いもも甘いも知ってるような熟練された人たち。とても楽しくて心地よい。

でもなぜか谷底感を感じる。

それが悪くない

 

ただたのしいのは私はもう要らないのだ。上手なだけの演奏も。自己表現の演奏も浮かれたような音楽もいいけれどちゃんと谷底感のある演奏。笑っちゃえるけど、泣けてくるような。

谷底を知っているひとたちのあえての浮かれた風な音楽。

 

まだまだの私はたのしげ、ならたのしげ。哀しげなら、哀しげになってしまうけれど、どうも世の中成熟した人たちは違うようだと気がつく。

 

 

かなしみを根底にかかえながらもそこはあえてかなしみといわない、

忌々しさという言葉も一蹴して喜びに変える。

かえていかないとやっていけない不条理の中で笑いというジャンルもあるのかもしれない。

 

かなしみを笑いに変えるのはかなしみという感情を自分が無視するんじゃなくて、そこを浮上させての、笑い。

 

(夜間走行で自転車旅行中の息子が眠すぎてねむったまま20キロ降っていた、、という話を、びっくりしながらも笑いながらきいた。)

 

だからなんだ、って話なのだけれど

だからなんだって内容の奥底にある何かを感じている

谷底について安心することもあるし、峠だから良いとも限らない。

 

 

 

so what's

f:id:sallygarden:20170711145103j:image

 

 

たまたまつけたら聴き覚えのある曲。実家に向かうカーラジオから流れる音をききながら妙にわくわくしつつ湖上の橋を渡る夕方。

 

monnin だよね。。と思ったら途中からあれ、ちがう、、

so what's だった

 

 

、、、、、、

 

先週、友人の大学の恩師に教育勅語について講義していただいた。(そこの話はまた)その先生は私の死んだ父親に雰囲気が似ている。

偶然にも父親と同い年である先生はご病気をされたにもかかわらず煙草を沢山吸われる。そんなところも少し似ている。

 

父親とは折り合い悪いまま10年も会わずに死に別れ。あらがいつつも趣味は多分父親寄りということを認めざるを得ない。

 

母親はそこのところの趣味がわからず父親のものをどんどん捨ててしまっていて私はダンボール一箱のレコードを救出。

その中にコルトレーンもある。

50年代のレコードはたくさんあるのだけれど私は父親がレコードきいてる姿はついぞみたことがなかった。

(巨大なコーヒーミルもあるがコーヒーをひくところも見たことがない。きっと学生時代の名残の憧れなのだろう。村上春樹も同い年)

 

 

 

 

 

、、、と実家に到着してそんなことを日記に書こうかとぼんやり思っていたら一通のメール。

so what's という名前のブログをやっているたろうちゃんが私のことをかいたよ、とおしらせ。

 

tarouhan24.hatenablog.com

なんなんだろう、この伏線。偶然。すごく嬉しい。

 

たろうちゃんはひさびさの感覚の友だち。

出会って一年もたってないのに古くからの友のような。

 

なんとなく今はいない友人Tにも似ている。

 

 

輪廻転生は信条として信じていないが、なんだったか大島弓子の漫画で

 

 

「一度死んだら次にはなりたいものになるのよ。なりたいものが一緒だったらなりたい人たちで1人の人になるの!」

 

というセリフがあった。もし生まれ変わりというものがあるのだとしたらもしかしたらそんなこともあるのかもしれない。

 

先に話した父と先生に関してもそうだし、

たろうちゃんに似ているといった友人Tにしたってそうだ。

 

 

似ている。

というのは、

命をのりこえてきた場所で、先に逝った人が励ましというか、たまにのりうつるかのようにその人がみえることなのか。

 

(少しあやしいけれど)

 

たまたまつけたラジオや友人からのブログのタイミング。

 

先日、自己肯定感がとてもある友人が

自分のいろいろの失敗や難点があっても、それはその点だけ。

自己否定にはつながらない

「だから、何?」といい意味で開き直れると。

'so what's '

 

そんなわけで、so what's のたろうちゃんに私はどんな風に返事しようかとほくそえんでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

i am lonely but not alone

f:id:sallygarden:20170625093352j:image

 

以前出会った、さみしいかしの木という歌。歌詞はあの、やなせたかしさん

 

https://m.youtube.com/watch?v=m0-Bi4QcpXQ

 

風のような友人と、水のような友人と一緒にいたとき、木のようだ、といわれた私は、そのとき自分を認められなくて、風をうらやましく水をうらやましくおもい、さみしい気持ちになっていたのですが、自分を認めていこうとしていたら意外と、というか木もいいもんだ、、と思えたのです。不動だ、(不動であることも悪くないのですが)と思っていた性質が実は不動ではない上へ下へとのびていく。

 

確かに鳥のようにはばたく人や風のように流れていく人に憧れは抱くのだけれど、木は、木なりに生きてみようと。

 

比べたり、馴染めてないと感じることも、さみしさも、中途半端なつながりの中でいると余計にさみしいものです。

 

 

意識して隠者となってみる

それがむりなら1人の時間をつくってみる

 

根を張ってみる。

(いや根を張っていることにめをむけてみるか)

 

ひとりになると孤独ではないし、考える力が湧く。いやひとりにならないと考える力は湧かないと思う。

 

風も、鳥も、木も群れることはあっても単独、ひとり、です。

人も同じく

 

でも一緒にいることの強みがかえって同調圧力になってしまうことがあります。

 

(講演会なんかで感想を、といわれると私は真っ白になるか、思ってもみないことを口にしてしまう。。訓練も必要だとおもうけれど)

 

私は、どう考えるか、が優先にあった上での、私たちはどう考えるか、どう生きるか、だと思うのです。

 

そう思ったことを否定も肯定もお互いにしない、というルールがあればどんなにか気が楽でしょう。

 

こないだ「空と土のあいだで」

という長田弘さんの詩に出会いました。

 

さみしいかしの木と同じ、木のことです。

 

でもこの木は時間を旅するという。

同じように根をはり、枝をはっていくことが自由であるという。

 

「自由とはどこかへ立ち去ることではない。考え深くここに生きることが、自由だ。樹のように、空と土のあいだで」

 

結局、人も木も、もちろん風や水も、

必要な存在。

でもどうせならよりよく生きたい。

 

(いまひとつ、いま思ってることがまとまらない。まとまらないなりに浮上してることだけ書いてみた)

 

#梨木香歩#共謀罪#宇宙兄弟#ihopepeace#兵役拒否#食べる野草#長田弘#hsp#ドリトル先生#飛ぶ教室#夏の朝#茶色の朝#まつらわぬもの#藤原辰史#庭持たない革命家#パーマカルチャー#ナチス研究

 

 

 

 

 

「空と土のあいだで」

どこまでも根は下りてゆく。

どこまでも枝々は上ってゆく。

どこまでも根は土を掴もうとする。

どこまでも枝々は、空を掴もうとする。

 

おそろしくなるくらい大きな樹だ。

見上げると、

つむじ風のようにくるくる廻って、

日の光が静かに落ちてきた。

影が地に滲むよつにひろがった。

 

なぜそこにじっとしている?

なぜ自由に旅しようとしない?

白い雲が、黒い樹に言った。

 

三百年、わたしはここに立っている。

そうやって、わたしは時間を旅してきた。黒い樹がようやく答えたとき、

雲は去って、もうどこにもいなかった。

 

巡る年とともに、おおきな樹は、節くれ、さらばえ、老いていった。

やがて来る死が、根にからみついた。

だが、樹の枝々は、新しい芽をはぐくんだ。

 

自由とは、どこかへ立ち去ることではない。考え深くここに生きることが、自由だ。樹のように、空と土のあいだで。 

 

#宇宙兄弟31eddy

 

 

 

 

 

 

 

夏に至る

f:id:sallygarden:20170621174627j:image

 今日は

太陽と月の巡りの中で、1番日照の長い日。

夏至

実は梅雨どきで冬至よりも光がすくないともいわれているようです。

 

その夏至と、冬至に近い日にtreeのちいさなマーケットはあります。

 

特に普段から出店とかしてるわけじゃないのに、ゆるくそのときのかんじでなんとなくださせてもらえて。

今回はアトリエイチイチとの共同出店も。

 

Heen

 

はそのアトリエイチイチの絵と言葉遊びの中でおもいついたユニット名ですが、

いま、絵と言葉のセッションがたまらなくたのしく、一年前からこういうのやろうと少しずつイメージ絵と言葉を習作、今回は自分たちが選ぶのではなくたのんでもらった方たちへの絵と言葉をつくっていってます。

f:id:sallygarden:20170621184958j:image

 

ところで

 

言葉は、手紙なんか特にそうだけれど夜中に書くとろくなことがないのです。。

 

夜ぼんやり考えたり、思い描いたことを夢の中で反芻して、朝おきたてで言葉だしする。

イメージが降りてくるまで受肉することはなかなかできないし、未熟なのだけれど、その人にいま必要なメッセージがおりてきたら本当に嬉しい。

 

朝の時間を大切にしたくなったせいか、歳のせいか、私の朝は非常に早い。それにしても夏至なのもあって暗闇からの夜明けを求めようとするとさらにさらに朝が早くなる。

 

朝も灯すろうそくを今日は夜も灯そうか。

キャンドルナイト夏至の日に、とやっていたことを数年ぶり思い出す。

 

 

ろうそくを灯すことで安堵するのは原型にかえっていくからなのだろうな

 

 #summer solstice #heen#tree

 

スケッチ効用

f:id:sallygarden:20170611201154j:image

 

結局のところ

縫い物の集まりだろうが湖岸でスケッチだろうが、そこに来たいという思いと横の繋がりの中で相手の心や自分の心から染みでるなにかをスケッチするわけです。

 

今日は最初からそもそもそんな感じで他の参加者みたいに湖岸に出向いたりして風景をかかずに、先にきてた少年の名前をかいたり、文字を書いたりしていた。

 

そんな落書きな私の紙も含めて参加者全員のスケッチが木の下に並べられる。

 

風景がかかれていたり葉っぱがかれていたりしてる中でそれぞれの絵をてがかりに知らない人と話す。

今日は作ったお茶や竹テント、楽器なんかももっていたからそこに興味をもつこどもたちもいたけれど、スケッチすることでそこの場に居られる気楽さの中、

 

なにかしらをきっかけに会話になっていく。

意外とそこは他愛もないようにみえて、他愛もなくない。

 

それぞれになにかしらをを抱えていて、他人からみてもそれは大変そうだったり一見、大変そうにみえなくても他愛もなくない程度には抱えてきてる。

 

とつとつと話すこと、または他愛もない風に、きっとつらいことをゆるくはきだす作業は心からでる線描があるからついでにうっかりでてしまうことなんだろう。

 

私は今日の大半ほぼひとの話をきいたり、ちいさなひとの音楽やお茶への興味に関心したりしてすごした。

 

朝一番に手書きで書き綴る、というのを(モーニングページという)してからきたのもあるけれどそれぞれの心象スケッチともいえるものになんとなく身体が反応していた。

 

もう参加者が帰りかけ、

ようやく風景をかきはじめた。

湖岸と反対方向には伊吹山がみえるほど澄み渡った空。

 

さざなみほど美しく難しいものはないなと、デッサン能力のなさを棚にあげつつもめにみえる部分が心とつながっていく

 

なんとなくばらばらで、かといって一体としたスケッチの日。

 

理想の学校の在り方に近いのかもしれない。

 

#アトリエイチイチ#スケッチの日