かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

無題

岡真史の詩と出会う

 

実はその詩とはすでにすれ違っていたのだけれど

 

ちょっとうまくいかない今日

 

ああ、と思っていたら

私の心に入ってきた。

 

敬愛する歌手、波多野睦美さんが、音楽家高橋悠治氏は詩と音を結ぶ音楽家だ、と。

高橋悠治が作曲もしている岡真史といういまはこの世にいない少年の詩。

知らなかったけど矢野顕子も彼の詩で歌を歌っている。

 

うまくいかないそんなときは心が沈むのだけれど沈むときにしか見えない風景やわからない言葉がある。

 

少し救われた

 

、、、、、、、

 

心のしゅうぜんに

いちばんいいのは

自分じしんを

ちょうこくすることだ

あらけずりに

あらけずりに・・・ 『無題』より

 

うみうた

 

sallygarden.hatenablog.com

 

 

この冬、踊り手である友人の企画で音楽と言葉と歌とダンス、そして絵。

 

Eの面白い手法でつくりだした言葉や絵や身体の動きができて

踊り手Eの出産前にライブをした。

 

うむひと

 

というテーマで私はおりてきた言葉を朗読し、普段から音楽を一緒にやっている友人がメロディのようなものをウクレレで弾き、私は朗読しつつ口ずさんだ。

 

その後ウクレレのメロディラインから素敵な曲がうまれた

 

うみうた

海ともかけているような夏にもよい曲

 

作ってくれた友人が男性であるというのもあるが

男性からみた女性たちへのオマージュのような、応援のような曲。

 

うたうひと、おどるひと、そして描くひと、、

 

出産といううむを超えて殻からうみだされる音やうごき、そして描くものがある

 

ことばは出されたら受取り手の中でいかようにも変化していくものだと思う。

受け取った後も日々の変化の中でイメージも変わっていくかもしれない。

 

踊り手だった友人も無事に赤ちゃんを出産し、ベビーラッシュ、知人友人がいまうみだそうとしている

当たり前のように過ごしているけれどそれは本当神秘的なこと。

 

生命だけじゃなくてうみだすときには大なり小なりそれ相当の神秘的なことがあるんじゃないか。

 

うみうた

の歌詞に

 

わたしは描く

何度でも愛をこめて

うつくしく強く

理想を求めて

 

というのがあって

 

その「理想を求める」という言葉に最初照れを感じていたけれど

日々更新していくことすなわち理想なのかもしれない。

更新はくりかえすことでもあり、繰り返しは大切ではあるけれど日々更新、よりよい方へ変化していこうとするのが人間

 

年を重ねると衰えをかんじることもあるけれどそれでも日々よくなる、新しくなる刷新していくイメージ。

よせては返す波も繰り返し

でもよせてかえすことは

もう最初の水とはちがう

浄化

海のイメージとぴったりだ

 

うみだすことは既存の繰り返しの中にあたらしさがある。再生ともちがうけれど全くみたことないものでもない。なにかしらうみだす側の何かを、感じつつ次へと進んでいく力

 

もうすぐ10年前に産んだ娘の誕生日もあるからそんなことをいろいろ思うのかもしれない。

 

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写真は娘の🍊ゼリーと🍋クッキー。そういえばうまれたころ私もゼリーをよく作ったな。

 

 

 

#cyperuspapyrus#ichiichi#おどるくらし#nokashi

 

 

 

 

おりとーく

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天と自分が縦糸

横糸は出逢う人たち

 

なにかの歌のようなことだけれど

織人と、こどもの名前が決まったとき

病院の牧師がそんなことを書いて聖書をプレゼントしてくれたのをおもいだす

 

 

カフェの近所のyさんが息子の旅の話を一から聞きたいとスティルルームで3回にわたって

①学校やめてから山バイトにいった話

②沖縄まで自転車でいった話

③ドイツイタリアに自転車横断した話

を開催してもらった。その名もおりとーく。名づけセンスすごい。

 

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未熟児網膜症だったり、小さなころから成長が遅かったり発達に不器用さがあったりと虚弱な部分あるのだけれど反面、彼には生命力があるなあ、、と感じる。

 

それは彼自身の力でもあるけれど大変な出生ゆえのほんとうたくさんいのられた結果だと思う。

今回もそうやって知人友人含めて支えられてる。。

 

巷では受験生の年。どうするの??とぽろっと私の口から出てしまうけれど、スロースクールなんだろう、きっと。

 

 

親以外の大人に出逢って励まされてすすんでいく。

 

 

帰国1ヶ月早々また北海道にむけて旅だったけれど(日本一周?するのか?)

 

たまたま平田オリザの本みつけたら17歳で世界一周したって。

なまえも奇しくも似ている笑。

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 オリピザ最高に美味しかった!イタリアの会は再度やってほしい。。スティルルーム、参加してくださったみなさま多謝深謝

毎回きてささえてくれたせれんでぃっぽ家ありがとう!undertreeティラミスありがとう!

 

#stillroom#undertree#せれんでぃっぽ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

管 空洞 蜘蛛の糸 蚕

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絵を見て言葉をイメージするという習作を最近つづけている。

 

蓋をあけてみると

全く知らない人のイメージがしっかりと絵とつながったり、季節とつながったりする

 

五感を超えた六感みたいなところで

言葉をおろすものだから

考えてしまったり自我がでるとたちまち言葉が出なくなる

 

ある絵をみてその人を天からの糸が支えているイメージ

その人は自由に動いているようにみえて動かされている。

方向性。

自由に動いているけれどある度をこえるともしかしたら糸は切れてしまうのかもしれない。

でも海をわたるほどの蜘蛛の糸、と思えば。

 

芥川龍之介の蜘蛛の糸のように、、いや蜘蛛、ではないな。

ふとかいこからでる絹糸なのでは、とおもった。

かいこ、と文字を打つとそれは天の虫とでる。

「蚕」

天からの虫。

 

蚕をじっくり観察したことはないけれど、繭をつくって、成虫するとそこを破っていく。

(破ける前に茹でてしまうことの方が多いそうだがタッサーシルクというのは成虫が繭を破ったものを使う)

そこにあるのは空っぽの抜け殻

 

抜け殻を大切に、管であることを大切にする、絹の世界

 

身の詰まった生き物「成虫」ではなく、空洞となった空っぽが重要。

そして糸、、、

 

そんなことを思い巡らせていたら

友人とのやりとりでここ数日の暦は

桑の葉を摘むころ、なのだそう。

 

桑の葉はかいこが食べる草  

 

面白いことにそうやって目の前にある事柄は繋がっていく

 

空っぽであること

なにもないこと

 

「ある」

 

ことがとても重要と一見思ってしまうけれど空であること

がいかに重要か

「私」が詰まっていると天の糸は重みで軽やかさを失う。

 

天にまかせると

思ったとたん

ものごとが動いていくのを感じる

 

心配はなんの得にもならない

いのるようなきもちというのは

その人のことを思うけれど

空っぽの心のままに

私が!という心を棚にあげて

お願いします、ということ。

 

行動しているし人のために動いているけれどみていて楽に感じる人と、感じない人はその空洞の軽やかさの違いか

 

纏っているものは美しいけれど中身はないというのはもうこうなると褒め言葉だ。

 

人にできるのは蚕のために葉をそだてつみ、用意する。

 

教育もそうだというが環境を整えることそれだけでこどもはそだっていく。

いかに私がそだてた感を棄て天にまかせつつもほったらかしでないこと。

そのバランス

 

 

五月礼讃

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こんな季節のよい時期に私は怒りすら出ずに心ここにあらず。

 

 

いままで生きてきてみたことないようなニュースが目に飛び込んでくる。

そんなニュースがでたって日々平々凡々と暮らしてるじゃないか

たのしく暮らしてるじゃないか

それで損してる人は目に見えるところで「いまのところ」いないようにみえる

 

 

くらしの中で

罪なきことが罪あることにされてしまう

準備

 

、、、、、、、、、

 

大好きな五月。

「五月礼讃」という詩を与謝野晶子は書いている

 

 

「五月礼讃」に何気ない根底に生きる喜びが綴られている。

愛する花々のこと、家族のこと。

愛が溢れるほどに好きな花について綴られている。

私も五月うまれ。庭の花も、お祝いにいただく花も嬉しい。

この季節が好きだということも綴りまくろう

 

心の中に祝う気持ち、愛にあふれる気持ちで充満させよう

 

その「満たし」の上で

はばかることなく言おう

 

「君死にたもうことなかれ」

 

五月礼讃

与謝野晶子の詩

http://rayk.blog84.fc2.com/blog-entry-270.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

light

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あたえられている力を十分につかえているか

 

白州次郎がきっかけで知ったnobless obligeという言葉。

多くを与えられている立場、力を持つものはそれを世のために使う義務がある

 

白州次郎はさておき

 

多くを与えられている人と比べて私は与えられていないから、些細だからなんのお役にもたてません

 

そうやって力を土の中に埋めてしまう

聖書の中にそんな話がでてくる。

主人にしもべがタラントを預かる話。

 

多くを預かったものたちは倍にして主人の帰りを待つ。

ところが少なく預かったものはそれをなくすのが怖くて土に埋める。

帰ってきた主人は怒り、それなら銀行に預けたものを!という。

この、「主人」はたとえこの少なく預かったしもべがこのお金を増やそうとして失くしたとしても怒らなかっただろう

 

恐れから土深く埋めてしまったことにとても残念な思いを抱いたのだと思う

でも私はこの土に埋めてしまったしもべにずっと共感してしまう

自分の与えられたもののちいささに恥じる思いもあるのか

 

 

キリストのたとえ話はちいさいもの、とりに足りないもの、貧しいもの、弱いもの話が沢山でてくる。

 

そんなちいさなささいなものであればあるほど神は選ぶ、というのだ。

世の中の価値基準とは真逆をいく。

先ほどの話でいえば小さく預けたしもべにこそ愛を注いでいたのかも。。

 

昨日みた光輝く鉱石をみて、多分信じられないほど長く土深くいたことに後から気づく

 

おそれをなして埋めてしまうことがあってもまた発掘すればいい。人はキラキラ光る鉱石を必ずもっているのだと思う。

世の光になりなさい 

そういうことなのだ。

 

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#ヴォーリス建築#駒井邸#世の光地の塩

#マタイ25章14

 

 

 

stillwater

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庭の、ちいさなちいさなお茶の木。今年の新芽をお茶にしてほんの少し。

 

無色透明に近いそのお茶

 

驚くほどに薫ったのです。

 

水辺にいくと、とても生きた心地がするのはこういう「薫り」を生き物としての私が放つ瞬間があるからかも。

 

五感をひらいていなければ気づかない、ささやかなそれ

 

もうそのあとの賑やかな楽しさにしばし忘れていたのですが、夜ふとその瞬間をおもいだしました。

 

少し前に、ぜひにと誘われた映画の中でも水辺にいくシーンがありました。

 

森の中のちいさな湖

そこでカヌーにのることもあるでしょう。

スティルウォーター教なのです、と仰る映画の中の人は静かに森の中から水辺へと歩いていく。

 

近くに水辺はないけれどこうやってお茶をのんだり、花を生けたりすることは少しでもその感覚近くにいたいとすることなのかもしれない。

 

しずくに近いほどの杯のお茶にそのすべてが凝縮されているよなあ。。と昨日、歳を重ねた日の一杯のお茶に答えをいただいたのでした。

 

明鏡止水