あたえられている力を十分につかえているか
白州次郎がきっかけで知ったnobless obligeという言葉。
多くを与えられている立場、力を持つものはそれを世のために使う義務がある
白州次郎はさておき
多くを与えられている人と比べて私は与えられていないから、些細だからなんのお役にもたてません
そうやって力を土の中に埋めてしまう
聖書の中にそんな話がでてくる。
主人にしもべがタラントを預かる話。
多くを預かったものたちは倍にして主人の帰りを待つ。
ところが少なく預かったものはそれをなくすのが怖くて土に埋める。
帰ってきた主人は怒り、それなら銀行に預けたものを!という。
この、「主人」はたとえこの少なく預かったしもべがこのお金を増やそうとして失くしたとしても怒らなかっただろう
恐れから土深く埋めてしまったことにとても残念な思いを抱いたのだと思う
でも私はこの土に埋めてしまったしもべにずっと共感してしまう
自分の与えられたもののちいささに恥じる思いもあるのか
キリストのたとえ話はちいさいもの、とりに足りないもの、貧しいもの、弱いもの話が沢山でてくる。
そんなちいさなささいなものであればあるほど神は選ぶ、というのだ。
世の中の価値基準とは真逆をいく。
先ほどの話でいえば小さく預けたしもべにこそ愛を注いでいたのかも。。
昨日みた光輝く鉱石をみて、多分信じられないほど長く土深くいたことに後から気づく
おそれをなして埋めてしまうことがあってもまた発掘すればいい。人はキラキラ光る鉱石を必ずもっているのだと思う。
世の光になりなさい
そういうことなのだ。
#ヴォーリス建築#駒井邸#世の光地の塩
#マタイ25章14