かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

ねむれぬ夜に

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一つの心が壊れるのをとめられるなら

わたしの人生だって無駄ではないだろう

一つのいのちの痛みをいやせるなら

一つの苦しみを静められるなら

 

1羽のよわったコマツグミを

もう一度巣に戻してやれるなら

わたしの人生だって無駄ではないだろう

 

エミリ.デキッスン の詩

長田弘

すすむほうへ

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お茶の手習いへ。

行ったら元気になるので、多少無理してでもいく、と決めています。

 

体調もあまりよくないそんな日でしたが、私のそんな思いが伝わったのか、その日のお茶は私の隅々を癒してくれました。

 

梅の茶。

白い梅のつぼみに湯を注ぐもの。

韓国のお茶。

いつもは忙しさにかまけて蓋している感覚がよみがえります。

先生お手製の甘酒のデザート。

 

そして岩茶。

パワーダウンしている体にはとても強くて数年ぶりによってしまいました。

お白湯をいただきながら。

はたからみると私のお茶を淹れる身体もとても硬い様子。

心と身体が一致して淹れるということを耳にしながら。

 

そして金匙という岩茶をいただいているうちに

身体があたたまり、鬱々としていた感覚が溶けていきました。

 

手習いでいただいたお茶のあと、800年の木の生茶をいただきました。

 

岩茶の、陽の気が強いあとに冬の最中でも程よく体を冷ます生茶

少し目を瞑って香をかぐとその木の前にいるような、木と一緒に瞑想しているような、そんな感覚。

 

駅にむかう足どりは行きしとは全く違う。喜びに対してアンテナをむけるような。

 

私はおもいのまま、風のまますすめばいい、と足どり軽く。まさに程よく茶酔。

 

帰ってから別の友と話したなかで、

いやなことがたちふさがることがあっても、すきなことやりたいことだったら、まえにすすもう。

いやなことのせいで、自分の好きをあきらめる必要はない。

自分の、「好き」という感覚を大切に。

「好き」の前にたちはだかる、面倒になる感覚や苦手なことへ、ちいさな大きな一歩を。

ちょっと苦手なことがあると、すぐたちすくもうとするけれど、大胆にふみこむことでそんなお茶のような返答があるかもしれない。

 

一歩進んで(その場から逃げたとしても)思った通りにならなかったとしても自分のすすむ方向を信じる。自分の味方でいよう。

 

 

 

 

四つの香

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祈りについて解説をある牧師がしていた。

旧約聖書の時代は祈りをささげるとき、4つの香を携えて聖所に入る。新約の時代も4つの香のような祈りがあると。

 

Pray=祈り

Pはprotest

Rはrequest 

Aはadoration 

Yはyield 

 

私が思うに順番も大事だと思う。

 

大変な自分の状況をみるときに

神よどうして??

といううちひしがれた、砕かれたような気分になる

祈るときそういうものを歯を食いしばって我慢して感謝しなければいけないと、思ってしまう傾向があるけれどそれは違う。

不満はまず訴えていい。

砕かれたたましい、、という言い方をするがそれは手づくりの香を焚くために一回一回砕く行為に似てる。

 

こんなものを神は喜ぶのだろうか、と思うのはこちらの感覚。よく考えてみれば、神にたいしてオープンだからこそ訴えたくなる。親しい間柄。

 

そしてこうしてほしい、と要求したくなる。

ここの行為までを私はとばしてきた気がする。

天に向ってそれをしないと、いつのまにか人に対して、また自分方向への不平不満のループにやられてしまう。

 

その段階まできてようやく

神が私の要求をきいてくださっている、かなえてくれる、と信じてうけとって感謝し、信じてゆだねていく。

 

神との関係の親密さ。親に向って安心してうったえかけるのと似ている?かどうかはさておき信頼関係がそこにある。

 

神が私に今してくださっていることに関して、抗いながらも、自分の要求をうったえながらも自分の思いを超えてそれを誉めるということ、絶対いいようにしてくださるという信頼。

 

いままでの人生は同じ神さまに向かって

順番をまちがって祈る行為をしまっていたかもしれない。

 

自分の気持ちや要求(ニーズとも言い換えられるかもしれない)を後回しにしてやみくもに感謝して、心ここにあらずで「信頼します」といってみる。

 

それは言ってるだけ。

 

 

まず、どうして?!

から。

するとあなたはどうしたいのか。とこだまのように返答がくる

 

そして変えられるものと変えられないものの見極めとそこも委ねていく勇気と信頼がおりてくる。

 

私の気持ちもちゃんとそこにあって

強烈な怒りが実は寂しさだったり、病気したことが実は大切にしてほしいということだったり。

 

今の状況を表面的にみてみるのではなくて天に祈ることによって深く内観してみる。

 

 

 

 

 

 

 

うまれる人

 

 

 

 

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かつての、

もう憶えていない

球体にいた感覚を。

 

、、、、、、、、

「わたし」はいま球体の内にいる。

否、外にいる。

制限のない宇宙に浮かんでいるようだ。

 

不安なのだろうか

安心なのだろうか

言葉にならない

 

 

いつのまにか、気づけば「わたし」は

母の球体の中にいた。

制限のある宇宙

けれどそこは制限のないあの空間に似ている。

 

わたしはそこで丸まっていよう。

いづれでていくだろう、

あの空間にいたときのように、

無制限にひろがっていくために、

縮こまっていたい。

力をためていたい。

 

 

わたしはまだかすかに憶えているあの世界でいたときのように手をひろげ足をひろげるんだ。

、、、、、、、、、

そこには善いもので満ちている

私をかなしませるものは何もない

 

私は球体のなかで浮かぶ

球体の外で浮かぶ

 

ああ、どちらが中で外なのかもうわからなくなってきた

 

おしだされる海の中

海、出される

 

そこには地があった。

 

私は浮いていたい、まだうまれ出たくないとまだおもいながら

 

ぼんやり味わったことのない感覚がうまれる

 

わたしと共にいた人はわたしを包んでくれる

わたしを待っていた人はわたしをだきしめてくれる

 

浮いていたい

浮いていたい

 

おかれたくない

 

けれど

 

そのおかれたところで

 

地がわたしを歓迎してくれるのを感じる

 

地はわたしに触れよ、という

私はずっとういていたかったけれど

 

触れる喜びを知った

 

つつみこまれる、だきあげられるときの

触れる喜び

 

地とわたしは仲良くなれるだろうか。

 

浮いていたことを思い出して私は泣く

 

けれど泣きながら地との出会いに、包んでくれる者たちに、笑うことも知る

 

浮いていたことをかすかに薄れていくことになきながら。

 

 

 http://sallygarden.hatenablog.com/entry/2017/01/12/195246

 

 

 

 

苦楽園、夙川へ

あまり行かない近郊 

 

 

ただぶらぶらしてても楽しい町、でも目的ないと行かない街。お会いしたその方と別れがたく、ともに歩く。

 

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Kica

フランスのアンティーク手芸小物など。

カフェスペースもあり。同行者の前感想どおりいいなあと思うものだらけだけど買うまでに至らず見るだけ。ほしいと思ったアルファベットの真鍮はほしいアルファベットが足りず。

 http://www.kica.co.jp/news/news.html

そうそう、きっとここもおすきですよ?と少し迷い気味に古書店へ。

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ウラン

古本屋というにはギャラリーのような雰囲気。カフェスペースもある。前の店といい苦楽園スタイルなのかしら。。

この時は日本製というテーマで、民藝の本や銀花が骨董と一緒にたくさん展示してあった。どうも音楽も趣味の店のようでおじさまたちが珈琲のみながら音楽談義。出入りが何回かあったけれどおじさまオンリー。こういう店は貴重。

 

0401

苦楽園マップにあった、数字の羅列の店名。播州織の店、とあり、駅から少し離れていて、同行の方も行ったことがない(2人ともまあまあ方向音痴)けれど、ぴんときたので行ってみる。

女性が1人アトリエと店をしている。同行の方は播州織の春色のショールに一目惚れ。オーナーさんのおかげでその後の店巡りに変化が。

ちなみに0401とかいて、綿ぬき、というのだそう。四月に入って着物にいれていた綿をぬく日なのだそう。衣替えに近いロマンティックなこよみのならわし。

 

 

三つ豆珈琲というカフェを紹介され、そこ気になってましたと同行の方も。

http://kyustyle.blog.fc2.com/blog-entry-943.html

ビルの中にチャイ屋さんとケーキ屋さんもあって、後で知ったのだけどそこのケーキを他店でも食べることができる。。

珈琲はあっさり、と普通、深めがあってその中でも選べる。普通にしてみたけれどしっかり深め。シックな店内。新しい店でも神戸は昔からあるような雰囲気を醸し出せる店があるのでは、とおもう。

 

一年前までは珈琲と甘いものがないと生きて行けない、、風のおつれあいさんのイメージで彼女もそうなのだと思ってたけれどまさかのカフェインレス、シュガーレスをここ最近取り入れているのだそう。なので彼女は氷なしのトマトジュース。私は小さなチーズケーキを頼んでしまった。

 

 一息ついて夙川を渡ってすこし入ってみる。

https://demarket.co.jp/ashiya_contd/

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設計事務所とアンティークな家具の取っ手とか食器。。

目的もって今度はきたいな、とおもってふりむくとこんなお店

 

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ちいさなおうちのような店内はなんともいえずシックな雑貨屋さんで、またここきたいですね、とささやきあった

http://s-heal.com/

 

さてあとは彼女のお気に入りの店へ。暗くなりかけてたどりつけるかしら?といいながらたどりついた住宅街のおみせ

 

http://www.anjico.com/anjico/anjico.html

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anjicoの文字がついたライト

ここのしつらえと、食器が好きなんです。と好きなものを紹介してくださったmさんに感謝。

お茶をどうぞ、とまた帰りにくい空間とおもてなしでした

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心の庭

 

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実はここ6年ばかり箱庭療法のようなものを受けている。

 

私には家庭というものがあるようでなかったからご夫婦でされているセラピーみたいなものに「父母」を感じて惹かれていったのかもしれない。

 

きつかったときには本当たすけられた

 

今回一年ぶりに、案内をあって、はじめて自分の方からたずねて箱庭をつくる経験をした。

 

簡易的な手づくりの箱庭。無になって形を作っていく。

前まではなにかストーリーがあったりしたのかもしれないけれど、今回、人や動物は登場しない。たんたんと石や木が重なっていく。

 

いままでにない、すっきりとした心象風景ですね。

 

といわれた。

話をしていくうちにその箱庭の形に意味もみえてきて、確かにまだ悩みは消えていないし、現在進行系の悩みもある。

 

風景は変わらない、けれど風景との距離が変わる。

またはきつさが底上げしてる感覚。

 

ああ。私いやだとおもってるよなあ、とか、うらやましいと思ってるよなあ。

 

それがうまく言えないけどその言葉の呪縛に自分が留まっていないというか。

 

いやだなあ、、ということばと私という存在が浮遊している感覚。

 

以前ならそれにガチガチになっていた。

 

私が行こうとしていく憧れの場所にはいつも行けなくその大きな固まりには行けなくて、でも本当にそこに重きをおいているのかい?

 

ふーーっと小さく心ゆるせる場所があってそこにいることがよい

 

とか言いながらやっぱりごちゃごちゃいいながらもがいていたり。

 

それでもふと

冬の中の種なのかもと。

動きがないかのようなスローな動きの中で芽がでるときがくると。

 

 

 

 

はだか/で/おどる

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来月、うむ人と題して踊る友人の踊りと歌のライブがあり、先日ワークショップ形式でつくっていく、というのに参加。

身体の部位と、身体の動きを無作為に抽出してその動きをそれぞれ考える。

 

封印していた何かがでた感じ。言葉でも音楽ともちがう、身体を動かすことの生きる力というか。

いま、家でまた布団で逆立ちに続いて娘のマット運動の内容ききながらでんぐり返ししたり、ぐるぐるしてる。

普段使わない位置関係、でんぐり返ししたときの、宇宙観。ふわっとする。

オイリュトミー(シュタイナーの身体表現)にも通じる。

 

さて

 

悩むことがあって自分では答えが出せないことがある。

 

心が苦しくて、かといってそれをノー!ということができない。

 

ノー、というのは簡単だが、そうなってもそうなれなくても心がついていかない。

 

 

いつも話をきいてくれたりびっくり仰天するようなアドバイスをくれる友が

 

大岩戸をひらくためにおどりを踊るアマテラスの話もしつつ、おどったら?という。それもはだかに近い姿で。

(それは半分イメージなんだろうけれど私の岩戸をひらくヒントなんだろうな。)

 

私がどうしたらいいかおもいあぐねている事柄もあなたの神さまにきけばいい、という。

 

そうだ、そうしてみようと意識をそちらにきりかえる。

 

(いのるというのは手にその悩みを継続しつつも、てばなすことだとふと思う。)

 

私にとっては聖書を読むということが答えをみつける手立てになるので

 

ひらきつつ、そういえば、といま私にあるwordはだか、踊る、で頭の中で検索してみる。

 

私は裸で母の胎からでてきた

また、裸でかしこに帰ろう

主は与え、しゅは取られる

主のみなはほむべきかな

ヨブ記1:21

 

踊りながら歌う者は

私の泉はことごとくあなたにある、と言おう

詩篇87:7

 

さてどうでるか。