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かやつり草

日々の、おもいたつこと

うまれる人

 

 

 

 

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かつての、

もう憶えていない

球体にいた感覚を。

 

、、、、、、、、

「わたし」はいま球体の内にいる。

否、外にいる。

制限のない宇宙に浮かんでいるようだ。

 

不安なのだろうか

安心なのだろうか

言葉にならない

 

 

いつのまにか、気づけば「わたし」は

母の球体の中にいた。

制限のある宇宙

けれどそこは制限のないあの空間に似ている。

 

わたしはそこで丸まっていよう。

いづれでていくだろう、

あの空間にいたときのように、

無制限にひろがっていくために、

縮こまっていたい。

力をためていたい。

 

 

わたしはまだかすかに憶えているあの世界でいたときのように手をひろげ足をひろげるんだ。

、、、、、、、、、

そこには善いもので満ちている

私をかなしませるものは何もない

 

私は球体のなかで浮かぶ

球体の外で浮かぶ

 

ああ、どちらが中で外なのかもうわからなくなってきた

 

おしだされる海の中

海、出される

 

そこには地があった。

 

私は浮いていたい、まだうまれ出たくないとまだおもいながら

 

ぼんやり味わったことのない感覚がうまれる

 

わたしと共にいた人はわたしを包んでくれる

わたしを待っていた人はわたしをだきしめてくれる

 

浮いていたい

浮いていたい

 

おかれたくない

 

けれど

 

そのおかれたところで

 

地がわたしを歓迎してくれるのを感じる

 

地はわたしに触れよ、という

私はずっとういていたかったけれど

 

触れる喜びを知った

 

つつみこまれる、だきあげられるときの

触れる喜び

 

地とわたしは仲良くなれるだろうか。

 

浮いていたことを思い出して私は泣く

 

けれど泣きながら地との出会いに、包んでくれる者たちに、笑うことも知る

 

浮いていたことをかすかに薄れていくことになきながら。

 

 

 http://sallygarden.hatenablog.com/entry/2017/01/12/195246

 

 

 

 

苦楽園、夙川へ

あまり行かない近郊 

 

 

ただぶらぶらしてても楽しい町、でも目的ないと行かない街。お会いしたその方と別れがたく、ともに歩く。

 

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Kica

フランスのアンティーク手芸小物など。

カフェスペースもあり。同行者の前感想どおりいいなあと思うものだらけだけど買うまでに至らず見るだけ。ほしいと思ったアルファベットの真鍮はほしいアルファベットが足りず。

 http://www.kica.co.jp/news/news.html

そうそう、きっとここもおすきですよ?と少し迷い気味に古書店へ。

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ウラン

古本屋というにはギャラリーのような雰囲気。カフェスペースもある。前の店といい苦楽園スタイルなのかしら。。

この時は日本製というテーマで、民藝の本や銀花が骨董と一緒にたくさん展示してあった。どうも音楽も趣味の店のようでおじさまたちが珈琲のみながら音楽談義。出入りが何回かあったけれどおじさまオンリー。こういう店は貴重。

 

0401

苦楽園マップにあった、数字の羅列の店名。播州織の店、とあり、駅から少し離れていて、同行の方も行ったことがない(2人ともまあまあ方向音痴)けれど、ぴんときたので行ってみる。

女性が1人アトリエと店をしている。同行の方は播州織の春色のショールに一目惚れ。オーナーさんのおかげでその後の店巡りに変化が。

ちなみに0401とかいて、綿ぬき、というのだそう。四月に入って着物にいれていた綿をぬく日なのだそう。衣替えに近いロマンティックなこよみのならわし。

 

 

三つ豆珈琲というカフェを紹介され、そこ気になってましたと同行の方も。

http://kyustyle.blog.fc2.com/blog-entry-943.html

ビルの中にチャイ屋さんとケーキ屋さんもあって、後で知ったのだけどそこのケーキを他店でも食べることができる。。

珈琲はあっさり、と普通、深めがあってその中でも選べる。普通にしてみたけれどしっかり深め。シックな店内。新しい店でも神戸は昔からあるような雰囲気を醸し出せる店があるのでは、とおもう。

 

一年前までは珈琲と甘いものがないと生きて行けない、、風のおつれあいさんのイメージで彼女もそうなのだと思ってたけれどまさかのカフェインレス、シュガーレスをここ最近取り入れているのだそう。なので彼女は氷なしのトマトジュース。私は小さなチーズケーキを頼んでしまった。

 

 一息ついて夙川を渡ってすこし入ってみる。

https://demarket.co.jp/ashiya_contd/

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設計事務所とアンティークな家具の取っ手とか食器。。

目的もって今度はきたいな、とおもってふりむくとこんなお店

 

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ちいさなおうちのような店内はなんともいえずシックな雑貨屋さんで、またここきたいですね、とささやきあった

http://s-heal.com/

 

さてあとは彼女のお気に入りの店へ。暗くなりかけてたどりつけるかしら?といいながらたどりついた住宅街のおみせ

 

http://www.anjico.com/anjico/anjico.html

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anjicoの文字がついたライト

ここのしつらえと、食器が好きなんです。と好きなものを紹介してくださったmさんに感謝。

お茶をどうぞ、とまた帰りにくい空間とおもてなしでした

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心の庭

 

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実はここ6年ばかり箱庭療法のようなものを受けている。

 

私には家庭というものがあるようでなかったからご夫婦でされているセラピーみたいなものに「父母」を感じて惹かれていったのかもしれない。

 

きつかったときには本当たすけられた

 

今回一年ぶりに、案内をあって、はじめて自分の方からたずねて箱庭をつくる経験をした。

 

簡易的な手づくりの箱庭。無になって形を作っていく。

前まではなにかストーリーがあったりしたのかもしれないけれど、今回、人や動物は登場しない。たんたんと石や木が重なっていく。

 

いままでにない、すっきりとした心象風景ですね。

 

といわれた。

話をしていくうちにその箱庭の形に意味もみえてきて、確かにまだ悩みは消えていないし、現在進行系の悩みもある。

 

風景は変わらない、けれど風景との距離が変わる。

またはきつさが底上げしてる感覚。

 

ああ。私いやだとおもってるよなあ、とか、うらやましいと思ってるよなあ。

 

それがうまく言えないけどその言葉の呪縛に自分が留まっていないというか。

 

いやだなあ、、ということばと私という存在が浮遊している感覚。

 

以前ならそれにガチガチになっていた。

 

私が行こうとしていく憧れの場所にはいつも行けなくその大きな固まりには行けなくて、でも本当にそこに重きをおいているのかい?

 

ふーーっと小さく心ゆるせる場所があってそこにいることがよい

 

とか言いながらやっぱりごちゃごちゃいいながらもがいていたり。

 

それでもふと

冬の中の種なのかもと。

動きがないかのようなスローな動きの中で芽がでるときがくると。

 

 

 

 

はだか/で/おどる

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来月、うむ人と題して踊る友人の踊りと歌のライブがあり、先日ワークショップ形式でつくっていく、というのに参加。

身体の部位と、身体の動きを無作為に抽出してその動きをそれぞれ考える。

 

封印していた何かがでた感じ。言葉でも音楽ともちがう、身体を動かすことの生きる力というか。

いま、家でまた布団で逆立ちに続いて娘のマット運動の内容ききながらでんぐり返ししたり、ぐるぐるしてる。

普段使わない位置関係、でんぐり返ししたときの、宇宙観。ふわっとする。

オイリュトミー(シュタイナーの身体表現)にも通じる。

 

さて

 

悩むことがあって自分では答えが出せないことがある。

 

心が苦しくて、かといってそれをノー!ということができない。

 

ノー、というのは簡単だが、そうなってもそうなれなくても心がついていかない。

 

 

いつも話をきいてくれたりびっくり仰天するようなアドバイスをくれる友が

 

大岩戸をひらくためにおどりを踊るアマテラスの話もしつつ、おどったら?という。それもはだかに近い姿で。

(それは半分イメージなんだろうけれど私の岩戸をひらくヒントなんだろうな。)

 

私がどうしたらいいかおもいあぐねている事柄もあなたの神さまにきけばいい、という。

 

そうだ、そうしてみようと意識をそちらにきりかえる。

 

(いのるというのは手にその悩みを継続しつつも、てばなすことだとふと思う。)

 

私にとっては聖書を読むということが答えをみつける手立てになるので

 

ひらきつつ、そういえば、といま私にあるwordはだか、踊る、で頭の中で検索してみる。

 

私は裸で母の胎からでてきた

また、裸でかしこに帰ろう

主は与え、しゅは取られる

主のみなはほむべきかな

ヨブ記1:21

 

踊りながら歌う者は

私の泉はことごとくあなたにある、と言おう

詩篇87:7

 

さてどうでるか。

 

cafe2

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常に失恋状態だ

というしょっぱなの友の言葉に

自分の中にあるなにかが共鳴してしまって、それどういうこと?ときくのだけれど説明できないという。

 

さみしさからはじめよう。というテーマの我が家でのブックトークカフェはまさかの本不在ではじまった。

 

「失恋状態」

 

話も終盤になってそんな言葉を発した彼がせっかくだしとおもむろにだしたのはけんかばっかりしてる不良漫画。ボーンと殴ったり殴られたり。それ以下でもそれ以上でもない。(そうじゃなかったらごめんなさい)

 

ああこの漫画のヒトたち、寂しいんやなあ、、と、はっときがついた。

 

さみしさを、ボーンとなぐったり殴られたりでなんとか解消しようとする(たぶん。)それを読むことで擬似体験もしくは身代わりに体験。

私自身はプロレスのたのしさを共感できなくてこの漫画でもそのさみしさを擬似体験できる自信はないのだけど、

暴力とか性とか死とか、って生きることへの憧れというか反動というか。

 

命がけでここにもきた、というてた。

私も結構命がけで行くところがある。

 

かつてはどこもそんなところばかりで

 

他の人にはそうでもないのかも、私だけおかしいと思いつつひとつの場所にひたすら通い続けたことも。身を守るために祈らずにはいられないところも。

 

でもなんで行くんだろう。いけにえになるために?

カナリアになるために?

 

思いがまとまらない。

閑話休題

 

 

相手がいての失恋だけど、相手に失恋してしまう私にも失恋。

ここで失望という言葉は使わない。

 

失恋ていう時点でまだ愛じゃないのか、愛なんて言葉日本にはなかった、いまの私はそんなものあるのか。

 

管となることでそんな失恋状態の私から、スポイト、もしくは寒天つくる道具のようになにかに上からおしだされることで解放されることがある。

 

いつもそれができたならさみしさから解放されるのか。

 

でもさみしさがあるからこそそこに到達できるのか。

暴力という言葉はすこしちがうけど上からの押し出しは暴力と近いのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

うむ人よ

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12/23朝(for 2/11)

 

胎内の充実

たましいをもつ存在がたましいをもつ存在を内在する。

 

二重の悦び

 

うみだす力、その生命を内在させる力はどこからくるのか

 

ワタシノハハノ胎内デアナタハワタシヲカタチヅクッテクダサイマシタ

ハレルヤ

 

誇らしげに膨らんできた身体の中心に、さらに中心がある。

 

何事も何事も小さく、あるいは大きく

大きさや形、種類を超えてうみだす力、

 

創造主クリエイター

に似せてつくられたものは

創造する力をあたえられている。

 

あなたはそれを認めていない

私にはないだとか私に少ないだとか

 

 

しかしそれは事実とは異なる

 

みてみよ胎内の中で少しずつつくられて、またそれをうみだす母を

 

産めよ増えよ地に満ちよ

 

それは決して単に人がうまれていく祝福だけでない。

 

人間の想像をはるかに超えたことをあなたはなし得ることができる、創造主からの祝福だ。

 

自信のなさにうちひしがれるとき、うみだす母をみよ

 

うまれたばかりの嬰児をみよ

その存在だけで実に創造性で満ちている

 

嬰児をみたとき、なにももたずにやってきているのに大人はそれを思いだしてよろこびを感じる。

 

あなたはうみだすことのできる人だよ

と言葉をまだもたぬ子が全存在でいう。  

 

うみだそうとしている母はただそこにいるだけで、それをもう知っているはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

イロノのことば

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そんな呪いのことばからはさっさと逃げてしまいなさい

 

劇中の、石田ゆり子のことばが年末深く刻みこまれた。

 

 

例えば私の場合、身体が大きいってことが固定して呪いのことばと現実になってる。

 

たまに集まる場で毒舌の人に心底憎くなるくらい落ち込んだときもある。

 

 

でもそれって呪いのことばを常に自分で自分に振りかざしているからこそ、引き寄せる現実と他人からの認識なのかも。また憎しみということでバッドスパイラル。スパイラルを逆転させてみよう。

 

そういうことからたまにフリーになったとき、意外と私はこの身体を気に入っていて、なに?わるくないよ?

と思うのだけれど。

 

 

身体的なことだけじゃないな、きっと。

自分の自信のなさや人と違ってたり、役に立たない、とか浮いてる、とか。

 

なんにもしないことが私の中でとても優先順位の高いことなはずなのに、やるせなさや、他の人ばかり褒められたりするとどんどん損なわれた感になっていく

 

でかいなーといわれるのは幼少の頃から。それがきっと、背が高くて素敵ね、だったらそのことを誇らしくおもったのかも知らないけれど、悪意に満ちたことばと捉えてしまった。裏返してみれば悔しくて嫌味をいったのかもしれないけれど、そんな憶測まで私にはわからない。

 

 

逆の妄想とマイナスの方向へその人がきっとそうおもってるに違いない、、とポツンとしてしまう。

 

それが個人的な経験だけじゃなく実は社会的なバインドだとしたら、、?と深くしずみこんでるときは頭の片隅にすら思わない。

 

 

のろいの言葉なんてとりかこまれるのはほんとう簡単で、そこにとらわれてると、え、わたしあなたのこと褒めてるよ?というのさえきこえてこない。

褒められてる言葉ももしや、嘘かも?と思う。

 

役にたたない人間だ、と思い込むのが特に得意な私は、役にたつにはどうしたらいいか?と考えてオーバーヒートしてしまう。

 

とりこまれる前にそこから逃げる。逃げるのもあり。

 

自分で自分の味方であると、のろいの前に自分の取りかこみを作るのもあり。

 

人によいものを祝福すること、喜びなさい、というのは私の防御なのかもしれない。

 

武井武雄の、イルフ(古い、の逆。つまり新しい)にならってイロノ(祝福)にしてしまえば、ヒトの傷つける言葉なんて表面的とケラケラわらえるかも。

林真理子も私を傷つける人は上流の人じゃない、って書いてたし。

 

悶々とした心の状態からのほうが気づきはおこると思うし。

 

友人の年賀には、ネイティブアメリカンの詩がかいてあった。最後にHO!って。

そんな感じ。ほ!!ってややこしい思いも声に出して祝福に変えていきたい。