かやつり草

日々の、おもいたつこと

cafe

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20年くらい前(!)夫の実家にはじめて訪れたついでに金沢の街を歩いた。まだ21世紀美術館もない頃。いわゆる観光に興味がなく、未だに名所といわれるところはあまりしらないのだけれど、たいてい私はいくべきところには足が向くようになってる。

 

ふっと目につく、ビルの三階にある喫茶ローレンスの看板。

 

引き寄せられるようにドアを開けた。

クラシックがながれる純喫茶。

 

その頃はお父さまがオーナーで五木寛之もいたという、サロンのような場所。

いつの間にかお父さまがおられなくなって娘さんが店を切り盛りされてる。

 

今年も年中無休で元旦早々訪れた。

こどもたちも一緒にはじめていったら

たまたま誰もいない店内でオーナーの話が止まらない。改訂版干支の話、新しい漢字の話、「元気で長生き楽しく生きるためにどうしたらいいかな」ってかんがえてるのよ。と次から次へとアイデアと構想?妄想?話がでてくる。

 

お役人さんが国のことを大きく考えようとしてもちっともすてきなアイデアなんてでてこないの。

小さい規模で考えるのがいいのよ。学校なら私立とかでね、自由奔放に考えたアイデアと実践を採用していってもらうのがいいわよね。

干支もね、みんなでかんがえて作り直したらいいわよね、12なんてすくないわ。絵が得意なこども、お話が得意な人、本もつくってね、、。生きる力が湧くじゃない?

 

私、お店も年中無休だし、どこもいかないでしょ、いろんなことを考えるのよ。こうやっておしゃべりしちゃうのももしかしたらこの子たちがいつか高官になるかもしれないじゃない?こんなこといってた人がいたなあ、、って憶えてもらったら。。

 

日本の未来をよろしく〜!ドアの外まで見送ってくれた。

お客さんがいなかったのもあるけどこんな風にたくさんお話するのははじめてのこと。

 

いわゆる神社仏閣の初詣でに行かない私にはローレンスは初詣での感覚。

 

距離感がびっくりするほど縮まった年のはじまり。

 

小説かけますね、ここのこと。というと、じつはね、書いてるのよ!と

名画を左ページに貼り細かな字で右ページに絵にまつわるストーリーをかいた太いノートをみせてもらった。f:id:sallygarden:20170102081605j:image

 

1時間で一名画右ページ1枚をかくと決めてるそう。若干違うけど私がやりたいことを

元旦早々みせられた。

 

文化の自家発電力、充電力の強い場所。

たっぷりのミルクコーヒーに新年の希望を抱いた。

 

 

 

 

 

'p'ayforward

 

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ペイフォワードという言葉があって、たしか映画にもなってたけれど、自分が受けたものをその人にお返しするのでなくて違う誰かに次はギフトしていく、、

 

おととい息子の誕生日で餅つきのイベントで少し年上のPくんから本をもらっていた。

 

https://www.kurumed-publishing.jp/

 

本をプレゼントする、というのは学生のときはよくしていたせいか、そういうのをきくと胸がきゅんとなる

 

Pくんは地元の大学生で地域デザイン?みたいな勉強をしていたご縁でか、私も関わりのある地域によくきている。大阪から通っているとは思われないほどその地域のおまつりやイベントにきてはかかわりをもってくれてるみたい。こどもたちもおばちゃんたちもみんな彼が好きで、なにかと可愛がられている感じ。

 

そのスピリットがどこからきているのか、育った環境なのか、大学の先生との関係なのかよくは知らないけれど、息子に渡された本をみてなんとなく浮かんだ言葉がペイフォワード。

 

昨日の地域でのイベント、餅つきでも一緒に地域オリジナルかるたを作ったのだけど、老若男女いろんなひとがかるたをつくりにきていた。こどもだけじゃなく、大人もたのしんで絵札をつくりできあがったらおとなげなく!かるたをする。

 

だれもそれをビジネスでしてるわけでなくそういったつながりづくりのために、楽しみのためにきてる感じ。音楽の演奏もあったり、餅花のワークショップもあったり。

 

喜びをうけとって、次はどうするかな。

ペイフォワードが上手そうなPくんの来年の抱負をききながら

 

 

要石もしくはkeystone

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川があって、そこがいかにも美しくみえたとしても、その周りはどうか、みんなにとってそこは住みよい環境なのか、どうか考えて川の中の大きな石を少しずらす。ほんのすこしだ。

そうすると、山からの水の流れがよくなって、おのずと川の上の方にある山辺の植生もかわってくる。

 

環境さえ整えたらあとはあまり手を入れなくてもそこは循環していく。

 

息子がそれをきいて整体みたいだな、といった。身体が整ったら頭でこれはだめ、とか考えて食べなくてもいい。

必要なものを身体は欲する。

私も保育の現場みたいだな、と思った。

こどもたちがスムーズに遊べる環境。

 

要石という言葉があるそうだ。

数日後たまたまみた洋画にもkeystoneという言葉がでてきて、あ、と思った。要石だ。

 

すこし整えること、要石が少しずれることで、自然環境も、身体も、人間関係も循環していく、のだろう。

 

それが要だよ、と見きわめる目も必要だけれど。

お題より

今週のお題「私のブログ・ネット大賞2016」より

 

http://sallygarden.hatenablog.com/entry/2016/11/19/094433

こうやって以前にもかいたのだけれど、

 

日々流れる音楽は選ばないと疲弊してしまう。たくさん音源はあるけれど、落ち着きたいとき聴くのは限られていく。

きいてもきいても飽きない落ち着きの増す音楽。

 

そういうものに出会えて幸せだし、そうやってきいている音楽家の、実際の音にこないだ出会えた。

 

するとなんだリビングルームできいていた音楽がよりリビング「生」できこえてはくるのだけれど目を瞑るとそこは自分の家。でも自分の家ではありえない効果。

 

青木隼人さんの音楽はそんな感じだ。

 

http://grainfield.net/aoki/

 

そして私は雨と休日というセレクトショップがとてもすきで、最近は彼の音源がここでも手に入る。

 

 

 

ジャケット買いという言葉もあるけれどここのものならそういう買い方をしてもたいてい間違いはないと思われる。

 

他のものでもそうだけれど、この方の感覚に信頼をおけるとおもうひとに出会えたことはしあわせだ。

 

#雨と休日#青木隼人

 

 

乃東生

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夏枯れ草、乃東生とかいて、

なつかれしょうずとよむ。

冬至の前の候をいうのだそうです。

 

枯れ草を刈って土にのせる

果樹畑になるところに枯れた竹や枝を脈のようにおく

 

先日そんな作業をさせてもらったあと冬至はいつだったか、としらべていたらこの旧暦の名前

娘の名前の漢字と同じ、乃

が使われるてるのに、乃東生、知りませんでした。(余談、何故こういう旧暦の言葉を学校では習わないんだろう。。)

 

(乃、には稲科の意味もあり)

 

 

 

冬は静かなようで実は一番エネルギーをためているときなのではないか

と最近感じています。

 

夏のはなやかさには季節の落ちていく枯れていく先がみえかくれしますが、

なにもついていない冬の枝木をみると芽が少しでてきたり、心待ちにするハルの花の希望を感じます。

茶会




どうして私がお茶に惹かれるのか。
心開く瞬間が本質的なものに出会うとある、と思います。





今朝また茶の花が咲いているのをみて思い出した話。


息子は旅の途中で私の古い友人の家にしばらく滞在させてもらっていた。

友人の家は福岡の糸島というところの素晴らしいお寺で、私も彼女の結婚式以来だからちょうど10年前にもいった場所。


お母さまがチェリブイリ事故のあと、小冊子をかいたり、(「まだ間に合うなら」地湧社)
自然農の川口さんの農合宿が何年か前まであったり、今でもさまざまなユニークな人たちがお寺とのかかわりの中で移住される方も多い。


震災の時にもおもいだした話だけれど、彼女の何年か前の話を思い出す。

自然豊かなその土地になにかの工場誘致の話が
あったそうで、反対運動もあったそうだ。

でもお寺はただただ開放してお茶会をし続けたんだそう。



そうすると工場側の方たちも来だして、、。何度か寺の素晴らしい庭園を前に茶会をするうちに

工場をここに作るのはやめます。と社長さんは言ったのだそう。

反対運動で表現しないといけない場合もあるだろうしそんな美しい話で済まないだろうという頭も片隅にあるけれど




私がお茶に興味があるのはお茶自身のすばらしさやしつらいだけじゃなくて、こういうお茶をすることによって生ずる人のこころを溶かすなにかなのかもしれない。


もちろんなかなか一筋縄でいかないこともあるけれど、それでもやはりそんな一筋のきもちでやっていこうと思う心を持ち続けたい。


彼が旅でよかったことは誰かに何かをシェアしてもらったことという。食べ物であったりよい場所の情報、景色であったり。


わけあう、ことを日常でも自然にできていけますように。

おさなごのように

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 池末みゆき先生のライアーコンサート

 

 

子守り歌をいくつか弾きますよ、と仰った中に私が以前息子にきかせていた、一緒に歌っていた曲があった。

 

○ちゃんといっしょ、○ちゃんといっしょ♫

舌足らずな歌い方で歌詞もこどもの名前をいうだけのそんな簡単な替え歌風。

 

すっかり忘れていた記憶。よくうたってたんだ、、と先生のライアーの調べの中にそのころの感覚がよみがえってくる。

 

今ももちろん大切な存在なのだけれど、いまとは違う、大変ながらも密着した/世界は善で満ちていると/信頼しているちいさな息子の姿を、めにみえない調べの中に見た。

 

もしかするとそれは、自分の中にあるおさなごかもしれない。

 

よくこどもを育てると、自分のインナーチャイルドがうかびあがるというけれど、ちいさなころにきかせるわらべうたや子守り歌にはそんな作用があるのかもしれない。

 

ライアーコンサートはどちらかというと裏方で緊張していた中、この曲にはふいにやられて涙してしまった。

 

先生にとって一番たいせつにしていることは祈りであると、はっきり仰られた。

 

歌う事も祈りそのもの。特別な人が歌うのではなく、こどもにとってお母さんや近くで歌ってくれるおとなの声が尊い。

 

 

そしておとうちゃん!おかあちゃん!と幼子がさけぶのに近いような気がした。

 

距離のある関係じゃなくて、その懐に駆け込むような。

 

こどもたちがイエスのそばにいくのを弟子たちが止めるのを、このようにイエスがたしなめる。

 

「天国はこのような(幼子のような)者たちのところである」と。

 

大人として歩みつつも常に神との関係は幼子のスピリットをもちたい。

 

クリスマスはイエスキリストがうまれる幼子のシーンだ。

 

弱さと貧しさの中で、無防備なのだけれど光と祝福で輝いている。

 

それは、幼子のイエスが飼い葉桶で眠っているからこそきわだつ。

 

たとえ「いま」の状態があまりよくないように思えてもだからこそかがやくのかも。

 

わらべうたを幼いときに聴くこと、そしてまた大人になって子に歌うことは、自分の中のおさなごの性質にスイッチを押すのだと思う。

 

あらためて歌はいいなあ、、と感じてる。風邪で声があまりでないいま、歌えるのことのありがたさも。