かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

お題より

今週のお題「私のブログ・ネット大賞2016」より

 

http://sallygarden.hatenablog.com/entry/2016/11/19/094433

こうやって以前にもかいたのだけれど、

 

日々流れる音楽は選ばないと疲弊してしまう。たくさん音源はあるけれど、落ち着きたいとき聴くのは限られていく。

きいてもきいても飽きない落ち着きの増す音楽。

 

そういうものに出会えて幸せだし、そうやってきいている音楽家の、実際の音にこないだ出会えた。

 

するとなんだリビングルームできいていた音楽がよりリビング「生」できこえてはくるのだけれど目を瞑るとそこは自分の家。でも自分の家ではありえない効果。

 

青木隼人さんの音楽はそんな感じだ。

 

http://grainfield.net/aoki/

 

そして私は雨と休日というセレクトショップがとてもすきで、最近は彼の音源がここでも手に入る。

 

 

 

ジャケット買いという言葉もあるけれどここのものならそういう買い方をしてもたいてい間違いはないと思われる。

 

他のものでもそうだけれど、この方の感覚に信頼をおけるとおもうひとに出会えたことはしあわせだ。

 

#雨と休日#青木隼人

 

 

乃東生

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夏枯れ草、乃東生とかいて、

なつかれしょうずとよむ。

冬至の前の候をいうのだそうです。

 

枯れ草を刈って土にのせる

果樹畑になるところに枯れた竹や枝を脈のようにおく

 

先日そんな作業をさせてもらったあと冬至はいつだったか、としらべていたらこの旧暦の名前

娘の名前の漢字と同じ、乃

が使われるてるのに、乃東生、知りませんでした。(余談、何故こういう旧暦の言葉を学校では習わないんだろう。。)

 

(乃、には稲科の意味もあり)

 

 

 

冬は静かなようで実は一番エネルギーをためているときなのではないか

と最近感じています。

 

夏のはなやかさには季節の落ちていく枯れていく先がみえかくれしますが、

なにもついていない冬の枝木をみると芽が少しでてきたり、心待ちにするハルの花の希望を感じます。

茶会




どうして私がお茶に惹かれるのか。
心開く瞬間が本質的なものに出会うとある、と思います。





今朝また茶の花が咲いているのをみて思い出した話。


息子は旅の途中で私の古い友人の家にしばらく滞在させてもらっていた。

友人の家は福岡の糸島というところの素晴らしいお寺で、私も彼女の結婚式以来だからちょうど10年前にもいった場所。


お母さまがチェリブイリ事故のあと、小冊子をかいたり、(「まだ間に合うなら」地湧社)
自然農の川口さんの農合宿が何年か前まであったり、今でもさまざまなユニークな人たちがお寺とのかかわりの中で移住される方も多い。


震災の時にもおもいだした話だけれど、彼女の何年か前の話を思い出す。

自然豊かなその土地になにかの工場誘致の話が
あったそうで、反対運動もあったそうだ。

でもお寺はただただ開放してお茶会をし続けたんだそう。



そうすると工場側の方たちも来だして、、。何度か寺の素晴らしい庭園を前に茶会をするうちに

工場をここに作るのはやめます。と社長さんは言ったのだそう。

反対運動で表現しないといけない場合もあるだろうしそんな美しい話で済まないだろうという頭も片隅にあるけれど




私がお茶に興味があるのはお茶自身のすばらしさやしつらいだけじゃなくて、こういうお茶をすることによって生ずる人のこころを溶かすなにかなのかもしれない。


もちろんなかなか一筋縄でいかないこともあるけれど、それでもやはりそんな一筋のきもちでやっていこうと思う心を持ち続けたい。


彼が旅でよかったことは誰かに何かをシェアしてもらったことという。食べ物であったりよい場所の情報、景色であったり。


わけあう、ことを日常でも自然にできていけますように。

おさなごのように

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 池末みゆき先生のライアーコンサート

 

 

子守り歌をいくつか弾きますよ、と仰った中に私が以前息子にきかせていた、一緒に歌っていた曲があった。

 

○ちゃんといっしょ、○ちゃんといっしょ♫

舌足らずな歌い方で歌詞もこどもの名前をいうだけのそんな簡単な替え歌風。

 

すっかり忘れていた記憶。よくうたってたんだ、、と先生のライアーの調べの中にそのころの感覚がよみがえってくる。

 

今ももちろん大切な存在なのだけれど、いまとは違う、大変ながらも密着した/世界は善で満ちていると/信頼しているちいさな息子の姿を、めにみえない調べの中に見た。

 

もしかするとそれは、自分の中にあるおさなごかもしれない。

 

よくこどもを育てると、自分のインナーチャイルドがうかびあがるというけれど、ちいさなころにきかせるわらべうたや子守り歌にはそんな作用があるのかもしれない。

 

ライアーコンサートはどちらかというと裏方で緊張していた中、この曲にはふいにやられて涙してしまった。

 

先生にとって一番たいせつにしていることは祈りであると、はっきり仰られた。

 

歌う事も祈りそのもの。特別な人が歌うのではなく、こどもにとってお母さんや近くで歌ってくれるおとなの声が尊い。

 

 

そしておとうちゃん!おかあちゃん!と幼子がさけぶのに近いような気がした。

 

距離のある関係じゃなくて、その懐に駆け込むような。

 

こどもたちがイエスのそばにいくのを弟子たちが止めるのを、このようにイエスがたしなめる。

 

「天国はこのような(幼子のような)者たちのところである」と。

 

大人として歩みつつも常に神との関係は幼子のスピリットをもちたい。

 

クリスマスはイエスキリストがうまれる幼子のシーンだ。

 

弱さと貧しさの中で、無防備なのだけれど光と祝福で輝いている。

 

それは、幼子のイエスが飼い葉桶で眠っているからこそきわだつ。

 

たとえ「いま」の状態があまりよくないように思えてもだからこそかがやくのかも。

 

わらべうたを幼いときに聴くこと、そしてまた大人になって子に歌うことは、自分の中のおさなごの性質にスイッチを押すのだと思う。

 

あらためて歌はいいなあ、、と感じてる。風邪で声があまりでないいま、歌えるのことのありがたさも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヤベツの祈り

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とてもマイナーではあるけれどヤベツという人が聖書の中に登場します。

ほんの数行だけなので詳しくはわからないのですが、出生がとても大変だったようで名前もかなしみ、という意味なのだそうです。

 

けれどもヤベツはそこに甘んじない。

 

わたしをおおいに祝福してください

わたしの地境をひろげてください

わたしがくるしむことのないようにしてください

と祈る。

 

 

きびしい状況の中に生まれた人、想像絶するような環境で育った人、、

比較するようなものではないけれどわたしにだって、きっとそれぞれに多少あるはず。

 

 

やりきれない事件や戦争が身近に、あるいはニュースにも報じられないところでおこっている。個人レベルのいざこざに至っては星の数ほどだ。

 

この状況を打破するのは感謝することだ、思ってたときもある。それはそれで正解。でもくるしい、たすけて、って言えること、こんな状況だけれど祝福してください!!とかみさまに言えることがどんなにか素晴らしいことかということを考える。

 

 

 

 

 

 

たいせつな友人の弟さんにお子さんが産まれた。かなしいことにお母さんは出産後まもなく亡くなられてしまった。

思うところはたくさんあり、言葉にならない気持ちで溢れているのだけれど、

友人の話していたことにとても印象深かったことがある。

 

うまれてきた子は不幸せの子ではない。

祝福された子だ。

 

かわいそうに、、と思うのは自然なのかもしれないけれど彼女が亡くなってお別れのときにたくさんの彼女の友人がうまれてきた子を抱いて祝福したそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

player in the life

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神は細部に宿る

 

一点一点ペンを打つように置くように描いていく点描ワークショップ、絵描きの友人と一緒にいったのだった。彼女は日頃から描いているのもあってさすがにのみこみもできあがりも素晴らしいのだけど、彼女のいうところの一点、一点が完成である気がする、という本質をついた一言をきいてそこにさすが、と思った。

ワークショップの中でひとつひとつ点を置いていくと、お喋りをだれもしなくなって、私は自分の出来不出来はどうでもよくなってそこの一点、一点に入っていく、瞑想していくような気がしていた。ちょっといっぱいいっぱいだった気持ちも溢れてきて少し涙が出そうになった。

 

 

 

また週がはじまって、こどもたちのいる園にいく。お帰りの時間に、お当番さんが1人ずつにライアーをまわしてそれぞれが一音ずつ鳴らしていく。それぞれに高い音があったり低い音があったり。

どれも技など関係なくその音、その音が完成されたもの。。

 

私もつま弾いて、そんなことをぼんやり考えていると帰り会のお祈りがはじまった。

「頭の先からつま先まで神さまのすがたです。。」

 

神は細部に宿るとはきいたことのあるフレーズだけれど、細部どころか、一点一点に神さまの似姿があるのではないか、、

 

日常も点と点で連続している。

そして一点、一点で完成している。

まちがった声も聞こえる時もあるけれど、なにも比較することはない、その一点で完璧だ、と思う瞬間がある。

 

それは葉っぱがひとつとして同じ葉脈がないのにどれも美しいということと同じだ。

 

ていねいな自然の姿に私もまねようと、すこしずつちかづいていこうと、いのるようにしてなにか点を置いていこう。

ひとつひとつ、音を奏でよう。いのりとはそういうものなのかもしれない。

 

 

 

必然の一致/偶然の一致/coincident

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音楽仲間が最近たくさん曲を作っていて仲間の2人とも歌詞をつくるとき曲が2番3番となったとき、一番の歌詞に伴って韻をふんでいく。

 

その感覚は日本語だけじゃなくて英語なんかでもそうで多分万国共通の感覚なのかもしれない。

私はそういう作業は得意じゃなくて韻を踏める友人にとても感心していたのだけれど、、、。

 

 

 

こないだこどもが学校で百人一首をやって楽しかった、とはなしてくれた。

 

 

百人一首でも上の句と下の句でも言葉の韻をふんだりするよなあ。。

 

韻をふむ、というルールにすると逆に歌詞をおもいつくよ、と友人が話していたような記憶もあり、おじさまの得意なオヤジギャグ的なこともやればやるほど冴えてくることとか、、そんなことを考えたりしていた。

 

つながりようがないことを何か1つのルールによってつなげると大きな喜びや創造が産まれるのかな。。

 

 

言葉を介して、目の前にある点と点がつながっていく作業を意識してしていく。

 

それが自分の作品でなくてもそこに自分へのメッセージを発見していく。

 

つくった本人にとっては意識して作ったものであってもそれよりもはるかに超えた偶然の一致が時空を超えて個々の心に響いてく。

偶然の一致だと思っていたものも必然なのかも。

 

意識すればするほどそういった一致を言葉だけじゃなくてメッセージとしてうけとることも多いかも。

 

そんなことを考えながらフィンランドの教育事情の動画をみてた。

数学の教師が、こどもたちが勉強するのは将来しあわせに生きるためです。

と断言。国語も数学もこういった発見がふだんの生活のなかにあればわくわくしたものになるんだろう

 

自分の中にある言葉にならないものが言葉になったときの喜び、繋がらないだろうと思っていた言葉と言葉がつながったときの喜び。