かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

ヤベツの祈り

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とてもマイナーではあるけれどヤベツという人が聖書の中に登場します。

ほんの数行だけなので詳しくはわからないのですが、出生がとても大変だったようで名前もかなしみ、という意味なのだそうです。

 

けれどもヤベツはそこに甘んじない。

 

わたしをおおいに祝福してください

わたしの地境をひろげてください

わたしがくるしむことのないようにしてください

と祈る。

 

 

きびしい状況の中に生まれた人、想像絶するような環境で育った人、、

比較するようなものではないけれどわたしにだって、きっとそれぞれに多少あるはず。

 

 

やりきれない事件や戦争が身近に、あるいはニュースにも報じられないところでおこっている。個人レベルのいざこざに至っては星の数ほどだ。

 

この状況を打破するのは感謝することだ、思ってたときもある。それはそれで正解。でもくるしい、たすけて、って言えること、こんな状況だけれど祝福してください!!とかみさまに言えることがどんなにか素晴らしいことかということを考える。

 

 

 

 

 

 

たいせつな友人の弟さんにお子さんが産まれた。かなしいことにお母さんは出産後まもなく亡くなられてしまった。

思うところはたくさんあり、言葉にならない気持ちで溢れているのだけれど、

友人の話していたことにとても印象深かったことがある。

 

うまれてきた子は不幸せの子ではない。

祝福された子だ。

 

かわいそうに、、と思うのは自然なのかもしれないけれど彼女が亡くなってお別れのときにたくさんの彼女の友人がうまれてきた子を抱いて祝福したそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

player in the life

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神は細部に宿る

 

一点一点ペンを打つように置くように描いていく点描ワークショップ、絵描きの友人と一緒にいったのだった。彼女は日頃から描いているのもあってさすがにのみこみもできあがりも素晴らしいのだけど、彼女のいうところの一点、一点が完成である気がする、という本質をついた一言をきいてそこにさすが、と思った。

ワークショップの中でひとつひとつ点を置いていくと、お喋りをだれもしなくなって、私は自分の出来不出来はどうでもよくなってそこの一点、一点に入っていく、瞑想していくような気がしていた。ちょっといっぱいいっぱいだった気持ちも溢れてきて少し涙が出そうになった。

 

 

 

また週がはじまって、こどもたちのいる園にいく。お帰りの時間に、お当番さんが1人ずつにライアーをまわしてそれぞれが一音ずつ鳴らしていく。それぞれに高い音があったり低い音があったり。

どれも技など関係なくその音、その音が完成されたもの。。

 

私もつま弾いて、そんなことをぼんやり考えていると帰り会のお祈りがはじまった。

「頭の先からつま先まで神さまのすがたです。。」

 

神は細部に宿るとはきいたことのあるフレーズだけれど、細部どころか、一点一点に神さまの似姿があるのではないか、、

 

日常も点と点で連続している。

そして一点、一点で完成している。

まちがった声も聞こえる時もあるけれど、なにも比較することはない、その一点で完璧だ、と思う瞬間がある。

 

それは葉っぱがひとつとして同じ葉脈がないのにどれも美しいということと同じだ。

 

ていねいな自然の姿に私もまねようと、すこしずつちかづいていこうと、いのるようにしてなにか点を置いていこう。

ひとつひとつ、音を奏でよう。いのりとはそういうものなのかもしれない。

 

 

 

必然の一致/偶然の一致/coincident

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音楽仲間が最近たくさん曲を作っていて仲間の2人とも歌詞をつくるとき曲が2番3番となったとき、一番の歌詞に伴って韻をふんでいく。

 

その感覚は日本語だけじゃなくて英語なんかでもそうで多分万国共通の感覚なのかもしれない。

私はそういう作業は得意じゃなくて韻を踏める友人にとても感心していたのだけれど、、、。

 

 

 

こないだこどもが学校で百人一首をやって楽しかった、とはなしてくれた。

 

 

百人一首でも上の句と下の句でも言葉の韻をふんだりするよなあ。。

 

韻をふむ、というルールにすると逆に歌詞をおもいつくよ、と友人が話していたような記憶もあり、おじさまの得意なオヤジギャグ的なこともやればやるほど冴えてくることとか、、そんなことを考えたりしていた。

 

つながりようがないことを何か1つのルールによってつなげると大きな喜びや創造が産まれるのかな。。

 

 

言葉を介して、目の前にある点と点がつながっていく作業を意識してしていく。

 

それが自分の作品でなくてもそこに自分へのメッセージを発見していく。

 

つくった本人にとっては意識して作ったものであってもそれよりもはるかに超えた偶然の一致が時空を超えて個々の心に響いてく。

偶然の一致だと思っていたものも必然なのかも。

 

意識すればするほどそういった一致を言葉だけじゃなくてメッセージとしてうけとることも多いかも。

 

そんなことを考えながらフィンランドの教育事情の動画をみてた。

数学の教師が、こどもたちが勉強するのは将来しあわせに生きるためです。

と断言。国語も数学もこういった発見がふだんの生活のなかにあればわくわくしたものになるんだろう

 

自分の中にある言葉にならないものが言葉になったときの喜び、繋がらないだろうと思っていた言葉と言葉がつながったときの喜び。

 

 

 

 

hug

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大学時代にとてもとてもお世話になったS先生、アメリカのマイノリティスタディていうのもあるけれど、ハグをする、っていうことをアメリカだけじゃなくて帰ってからもするようにしようと、と影響を受けた先生。

日本にどっぷり浸かっているとシャイな習慣の方に影響を受けてなかなかしていなかったけれど。

 

ここにきて数年前、アトリエハグハグという空間をやっている友人が名前の通りあった時ハグをするので素敵やなあ、、とおもった。

 

驚いたのは、京都在住のはずのS先生と彼が同じ在所ルーツだと判明。

 

彼のやっているマルシェで大学辞めてから出店してたS先生とハグハグの彼が

Hug!

私の原点と、今が繋がった感じ。

点と点がハグによって繋がった。

ハグするって素敵と、あらためて思う。

 

 

写真はbiwakodaughters

という近くのモダンな鮒鮨屋さん

 

living/live/生きる場所

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ここ数年ずっと聴き続けている

家で何度きいてもきいても飽きない。

我が家の床や壁にも染みてるんじゃないだろうか

もちろん私にも

 

ようやく昨夜base for rest でliveをはじめてきく機会を得た

 

「音に灯す」

 

生でなければ音楽を聴けなかった時代を想像する感覚

 

雲南の古樹の紅茶をいただく。

イギリスの古い歌を「いま」奏でる。

ねむっていたものがよみがえる

 

いにしえのお茶や音が、むかしはそれしかなかったろうそくの灯りのもとでいまうかびあがる。

 

 

目を瞑ると薪ストーブのあたたかさを手伝ってかいつもの音楽、自分の家に居るようだ。眠っているわけではないけれど眠りに近いよう瞑想のようなときもあったようにおもう。

 

Livingroomとはよくいったものだ。

いまを生きる場所、ここに在る感覚を育む場所。live演奏もその感覚をひきだすものなのかも

 

1つの曲の中でキャンドルが一本一本消えていった。

 

暗闇を感じてしばらく

 

またひとつ、またひとつ灯されていく

 

暗闇からまた光

 

この季節のテーマでもある

 

シュタイナー曰く、生命は夏よりも冬の方が活発だと。目に見えない部分、表面的な部分が伸びていく季節。

静かななかにこそ躍動がある。

わかるような気がした。

 

いまちょうど園では先生がいばら姫(眠り姫)の素話をしている。いま何故それをしているか気がついた。

灯り愉しむちょうちん祭りも明日。この感覚を無意識に得られる子どもたちは幸せだと思った。

 

 

 

共時性

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synchronicity

 

を日本語に訳すと共時性、という

 

家族になった人、友人、遠くなった関係もあるけれど、時空すらも超える中に、共に時をすごす感覚をもつときがある。

 

たいていが良きことにだけど、むしゃくしゃした気持ちに私がちょうど数日前なったときにそういう棘のようなものが出やすい人が目の前に間接的に何人か表れた。

 

天候とか暦とかのせいもあるかもしれないけれど、自分のその、トゲっとした感情の鏡がそこ、ここに映されているような気がした。

 

いやだなあ、といやな感情に対してどんどん餌を与えている。

 

類するものが巨大になっていく。

 

 

synchronicityをいい意味として新たに意識してみる。

 

よい、も悪いもない、そこには愛だけがある。そう思うと、私のトゲトゲにも、傍観してああ、トゲがあるんだ、と幻のように見ることができる。

 

良き事の共時性があふれだしても、そこに感謝しつつ

 

もしかしたらしんどい事の共時性もそのとき私には必要で、よくよく観察すると愛に溢れているのかもしれない。そんな風に思えてくる。

 

最初はたまたまだと思っていた関係も、2度3度と偶然の一致が重なれば重なるほどわくわくという名の愛があふれてくる。

よきものにも、わるいとされるものにも。

 

「こわいものはなにもありません。そこには愛だけがあるのです。」

 

こどもたちと園で帰りに祈ることばをおもいだす。

 

 

禅のことばにも両忘という、ぼんやり私が考えてたことをあらわす言葉があるようだ

 

全き愛は恐れを締め出す

 

これは聖書の言葉

 

くらやみと判断してしまういまの世の中にできるだけ想像してみる、全き愛。

 

 

 

 

 

 

 

宵ノ空二光舞ウ

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Stillroomhttp://cstillroom.exblog.jp/23263829/

久野村優子さんのビオラと毎回ゲストの変わるroom。

今回は古い友人の末富央記くん。

 

 

銀河鉄道の夜が9章ということで、今回は5章から

 

銀河鉄道の夜のイメージ

 

宵ノ空二光舞ウ

 

という央記くんのオリジナルができました。

 

私は音楽をきいて泣くというのはなかなかないけれどどこかに泣くという記憶のスイッチの音があるのでしょうか。

 

それともずっと音楽をされてきた2人の音の重なりの響きに共鳴したのか、最初きいたとき涙が溢れてきました。

 

 

 

やはりスティルルームは熟成される場所です。

 

重ねてきた熟成された音ができたてのものとあわさっていく。

 

 

 

 

光が舞うように音の舞う夕暮れ、余韻に浸ります。