かやつりぐさ

綴文字 紡グ詩

hug

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大学時代にとてもとてもお世話になったS先生、アメリカのマイノリティスタディていうのもあるけれど、ハグをする、っていうことをアメリカだけじゃなくて帰ってからもするようにしようと、と影響を受けた先生。

日本にどっぷり浸かっているとシャイな習慣の方に影響を受けてなかなかしていなかったけれど。

 

ここにきて数年前、アトリエハグハグという空間をやっている友人が名前の通りあった時ハグをするので素敵やなあ、、とおもった。

 

驚いたのは、京都在住のはずのS先生と彼が同じ在所ルーツだと判明。

 

彼のやっているマルシェで大学辞めてから出店してたS先生とハグハグの彼が

Hug!

私の原点と、今が繋がった感じ。

点と点がハグによって繋がった。

ハグするって素敵と、あらためて思う。

 

 

写真はbiwakodaughters

という近くのモダンな鮒鮨屋さん

 

living/live/生きる場所

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ここ数年ずっと聴き続けている

家で何度きいてもきいても飽きない。

我が家の床や壁にも染みてるんじゃないだろうか

もちろん私にも

 

ようやく昨夜base for rest でliveをはじめてきく機会を得た

 

「音に灯す」

 

生でなければ音楽を聴けなかった時代を想像する感覚

 

雲南の古樹の紅茶をいただく。

イギリスの古い歌を「いま」奏でる。

ねむっていたものがよみがえる

 

いにしえのお茶や音が、むかしはそれしかなかったろうそくの灯りのもとでいまうかびあがる。

 

 

目を瞑ると薪ストーブのあたたかさを手伝ってかいつもの音楽、自分の家に居るようだ。眠っているわけではないけれど眠りに近いよう瞑想のようなときもあったようにおもう。

 

Livingroomとはよくいったものだ。

いまを生きる場所、ここに在る感覚を育む場所。live演奏もその感覚をひきだすものなのかも

 

1つの曲の中でキャンドルが一本一本消えていった。

 

暗闇を感じてしばらく

 

またひとつ、またひとつ灯されていく

 

暗闇からまた光

 

この季節のテーマでもある

 

シュタイナー曰く、生命は夏よりも冬の方が活発だと。目に見えない部分、表面的な部分が伸びていく季節。

静かななかにこそ躍動がある。

わかるような気がした。

 

いまちょうど園では先生がいばら姫(眠り姫)の素話をしている。いま何故それをしているか気がついた。

灯り愉しむちょうちん祭りも明日。この感覚を無意識に得られる子どもたちは幸せだと思った。

 

 

 

共時性

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synchronicity

 

を日本語に訳すと共時性、という

 

家族になった人、友人、遠くなった関係もあるけれど、時空すらも超える中に、共に時をすごす感覚をもつときがある。

 

たいていが良きことにだけど、むしゃくしゃした気持ちに私がちょうど数日前なったときにそういう棘のようなものが出やすい人が目の前に間接的に何人か表れた。

 

天候とか暦とかのせいもあるかもしれないけれど、自分のその、トゲっとした感情の鏡がそこ、ここに映されているような気がした。

 

いやだなあ、といやな感情に対してどんどん餌を与えている。

 

類するものが巨大になっていく。

 

 

synchronicityをいい意味として新たに意識してみる。

 

よい、も悪いもない、そこには愛だけがある。そう思うと、私のトゲトゲにも、傍観してああ、トゲがあるんだ、と幻のように見ることができる。

 

良き事の共時性があふれだしても、そこに感謝しつつ

 

もしかしたらしんどい事の共時性もそのとき私には必要で、よくよく観察すると愛に溢れているのかもしれない。そんな風に思えてくる。

 

最初はたまたまだと思っていた関係も、2度3度と偶然の一致が重なれば重なるほどわくわくという名の愛があふれてくる。

よきものにも、わるいとされるものにも。

 

「こわいものはなにもありません。そこには愛だけがあるのです。」

 

こどもたちと園で帰りに祈ることばをおもいだす。

 

 

禅のことばにも両忘という、ぼんやり私が考えてたことをあらわす言葉があるようだ

 

全き愛は恐れを締め出す

 

これは聖書の言葉

 

くらやみと判断してしまういまの世の中にできるだけ想像してみる、全き愛。

 

 

 

 

 

 

 

宵ノ空二光舞ウ

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Stillroomhttp://cstillroom.exblog.jp/23263829/

久野村優子さんのビオラと毎回ゲストの変わるroom。

今回は古い友人の末富央記くん。

 

 

銀河鉄道の夜が9章ということで、今回は5章から

 

銀河鉄道の夜のイメージ

 

宵ノ空二光舞ウ

 

という央記くんのオリジナルができました。

 

私は音楽をきいて泣くというのはなかなかないけれどどこかに泣くという記憶のスイッチの音があるのでしょうか。

 

それともずっと音楽をされてきた2人の音の重なりの響きに共鳴したのか、最初きいたとき涙が溢れてきました。

 

 

 

やはりスティルルームは熟成される場所です。

 

重ねてきた熟成された音ができたてのものとあわさっていく。

 

 

 

 

光が舞うように音の舞う夕暮れ、余韻に浸ります。

 

 

 

 

書を捨てて旅に出よ、書を携えて、

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書を捨てて、、と謳ったのはたしか寺山修司

 

それはどういう意味?

旅には本は不可欠だけれど?と思ったものだ。

 

 

 

今朝、起きてうかんだことば。から連想する。(朝浮かぶことは夢の中のふるいにかけられた言葉だと思っている)

私がつけくわえるなら、

 

 

書を捨てて旅に出よ、書を携えて。

 

いや、携えて、というより

 

書を捨てて旅に出よ、さすればまた得る

 

 

 

荷物は最小限の、長めの旅に出ていた息子の行く先には新しい出会いがあったのだと思う。本の出会いもあったかもだけれど、書を捨てよ、というのはまずは頭の中だけの世界から脱出せよ、ということなのか。

 

何冊も何冊も本棚には憧れと妄想から脱出できない本がある。

ずっと何年も何年もそれはあるのだけれど、昨日、長い旅から帰ってきてまだ疲れのとれない息子が本棚をみて叫んだ。

 

これ、おれが旅先の本屋でみて読みたくなったやつ!

 

多分旅にでると、家にかえってきたときの風景も変わる。旅眼鏡というべきか、

 

まず自分の中の書をすてる。

 

一度でる。 

 

 

また戻ってきたときの風景は同じものでも新しいし、全く違う観点から見るのかもしれない。

 

 

息子が読みたい、といったのは、ソローの森の生活

 

今回そんな思想と実践をしている方々のところへもお世話になったこともあるけれど、

帰宅後家の本棚(親の本棚)に読みたいのがたくさんある!と言ってくれたのは嬉しかった。

 

また、直島での森山未来の言った言葉を思い出す。

「あなたは自分の家から出て、この島にやってきた。そしてまた帰っていくけれどそこはもう以前のあなたの家ではない。」みたいなことを踊りながら話していた。

 

私にとっても旅は、日常やそこにずっと変わらずにあったもの、あり続けるものへの新しい確認であり、スパイスである。

 

 

 

アンジュール

 

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昨日学生時代の親友と数年ぶりに電話で話した。

 

 

ふとおもいだすのは、アンジュールという絵本をくれたO

 

いまどうしている?

わたしより連絡をとっていただろう電話の友にきくがもうかれこれ5年以上は音信不通だとか。いま新宿にいるとかいないとか。最後にきいたのはバーテンダーをしつつ人の悩みをきいていたとか。

私は20年は会っていない。

の、「20年」がこの年になると多い。

 

なんだか異性なのに話しやすいと思ったら彼は途中からなんとなく異性ではなかったのかもしれない、と思った。

 

 

 

 

アンジュール

小説をかいていた彼がくれた字のない絵本

 http://www.ehonnavi.net/sp/sp_ehon00.asp?no=2186&spf=1

 

なんでくれたんだったろう。このころはよく本をあげたりもらったりした。

 

(尊敬してた児童文学の今江祥智も推薦してたような気がする。)

 

本をたくさん読むことは学びにはなるけれど字を読むことだけが文をつくることにはけっしてつながらないというのを文を書く彼に教えてもらった。

 

 

 

 

暗黒の(苦笑)高校時代までと違って、大学生になるとずっと同じ教室にいる必要がない、というのが私にはほんとうに気が楽だった。教室という空間は私にとっては逃げ場がなくつらかった。

 

陳腐な言い方だけど、学校の外にフィールドがあり、対話する人がいればその場は学校だし、究極そんな人居なくても居てもいいと思わせるのが行っていた学校だった。

 

親友のHとはたいした話はしないんだけど、はじめて話さなくても一緒に居られる人だった。逆にそんなんで安心してたくさん話したような気もするが。しばらくしたらやっぱり話す必要がなくてただただぼーっといたことも多かった。

 

 

 

 

 

こないだ行った古本市で、岡崎京子の本をたくさんみたからか、

Oも、電話のHも岡崎京子がすきだった。私にはちょっとハードすぎて読みそびれているけれど。

 

岡崎京子オザケンのライブにきてはったみたいですよ、と古本市の店主は言っていた。

それ私も知ってる。そんな世代だ。

 

私は大島弓子の雑草物語を買った。

 

大島弓子がすきなんだったら岡崎京子が物語の中で沢山パロディしてますよ、店主。そんなことをいまごろ知る。

 

 

 

 

 

逆立ちする

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友人と久しぶりにゆっくり話したとき、毎日逆立ちをするという話をしていた。

 

ほんとうは逆立ちの姿勢がほんとうなのかも?

逆子っていわれる産まれ方は足から産まれてくる。

 

ということは逆立ちって

 

全てをひっくりかえしているようで本来の姿に戻っている。

 

でもあまりに逆立ちじゃないほうが当たり前になっていてずっと逆立ちはできない。。

 

けれどやるとなにか本来の身体や心に戻るような気がする、とその友人が言うので、家に帰って思い切って何年かぶりにやってみることになった。

 

こどものときはぐるぐるまわることやさか上がり、逆立ちも不器用なりにあの、逆さになって引力からさからう不安定さが心地よい。これは懐かしさからきているのかもしれない。

 

胎児の記憶やこどものときの時間の流れは大人よりも長い。

 

その時にずっと逆立ちしていた「私」はどうして地に足ついていることが当たり前になっているのだろう。

 

さてわたくし。逆立ちをどうにかして壁をたよりつつ何秒か、何分かしてみた。

 

使ってないところがぐーんと伸びる感じ。忘れてた感覚。ずっとはできないけど、またしたくなる感覚。

 

 

夏にみた森山未来ダンスの言葉にも通じる。あたりまえになっていることが実はナンセンスでナンセンスだと思っていたことが実はほんとうだったりする。

 

時間の概念や常識的なこと。それが社会を作っていくから必要ではあるけれどドクマティックになっていくとき「逆立ち」してみる。

 

ひっくりかえしてみる。

 

1日分のドグマを逆立ちでまたフラットにする。

 

今日もやっぱり寝る前にやるかな。